2000.6.11、 神戸教会、神戸教会週報、聖霊降臨節第1主日
(牧会42年、神戸教会牧師 22年目、健作さん66歳)
ヨハネ福音書 16:4b-15、説教題「弁護者はあなたがたのところに」
ヨハネによる福音書16章のこの箇所を理解するためには、13章以下の流れを見ておく必要がある。
13章1節で、著者はイエスの「時」が来たことをはっきり打ち出す。
ユダヤ教指導者は再三イエスを捕らえようとする。しかし、イエスはそれをうまく切り抜ける。
「時」が来ていないからである。
しかし「今」やこの世の悪と対決して苦難の死を遂げ、父なる神の元へと帰ると言う、彼の生における最も重要で厳粛な時が示される。
迫り来る危機を目前にしながら、世に残されて戸惑い、不安に陥るであろう弟子たちに心を込めて別離の言葉を与える。
これが13章から16章終わりまでの長い「決別説教」である。
イエスを殉教死にまで追い込んだユダヤ教指導者は、弟子たちに迫害を加え、苦難の事態を引き起こす。しかし、このことはかえって「益となるのだ」と言う。
何故なら、イエスが去ることによって、助け主(聖霊)が信仰者のもとに来るからである(16:7)。
”しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。”(ヨハネによる福音書 16:7、口語訳 1955)
”しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。”(ヨハネによる福音書 16:7、新共同訳)
「イエスの時」が彼の「苦難」と「栄光」という二重の”時”であるように、弟子たちの”時”も、別離(続く苦難)と「助け主」を与えられるという二重の”時”である。
著者は「時」という言葉を介して、イエスと弟子の最後の場面を語りつつ、(ヨハネの現在の)教会を重ね合わせる。
苦難を受け、助け主に支えられることになる弟子とは、イエスの生と死を直接に経験したかの弟子たちであるのみならず、ユダヤ教徒からの弾圧の中で、イエスの”信”に身を置く当時のキリスト者でもある。
イエスの最後とヨハネの教会とは、60年あまりの時の隔たりがある。
しかし、イエスが語り、弟子たちに力を与えたのと同様に、ヨハネは「助け主」の到来を「語る」ことで、読者とイエスを直結させ、現在を乗り切る力を、今、生きて働くイエスの存在から与える。
ここには、ヨハネ独特の聖霊についての理解がある。
ギリシア語原文の「パラクレートス」を口語訳は「助け主」、新共同訳は「弁護者」と訳している。第一ヨハネ 2:1、ヨハネ福音書 14:6、14:26、15:26、16:7。
”わたしの子たちよ。これらのことを書きおくるのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためである。もし、罪を犯す者があれば、父のみもとには、わたしたちのために助け主、すなわち、義なるイエス・キリストがおられる。”(Ⅰヨハネ 2:1、口語訳 1955)
”わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。”(Ⅰヨハネ 2:1、新共同訳)
語源は、パラ(傍に)+カレオー(呼ぶ)。名詞形は、勧告・慰め・教えの意味で広く用いられている。
この語は、イエスを殺した人々の価値観(イエスの罪、ユダヤ人の義、彼らの裁き)の誤りを明確にして、イエスが地上に存在することの真理(彼らの真理を逆転させる)を個々人の内面に働きかけて明らかにする「勧め」「慰め」「力づけ」をする「神の霊」「真理の御霊」を表す。
「弁護者・助け主」は、苦難の時を逆転させ、守り・助ける神の働きかけである。
それは、他ならぬ、イエスの「現臨」でもある。