中山手六丁目を歩く

神戸教會々報 No.157 所収、2000.6.4

(健作さん66歳)

この町にはわたしの民が大勢いる。 使徒 18:10


 神戸は足の街である。何処を歩いてもよい。

 この近辺、朝は背山登山道に中高齢者の交わす挨拶が弾む。

 夕べの海辺では、潮風に吹かれて歩く恋人たちのシルエットが逆光の中突堤に浮かぶ。

 海から山へと坂道でつながる街なみも歩くほどに味わいがある。

 久しぶりに、ゆっくりと神戸教会から北に、楠の新芽が匂う歩道橋を渡って中山手六丁目を歩いてみる。

中山手6丁目

 かつて、『近代日本と神戸教会』(創元社 1992)を編集していた頃、今は亡き武藤誠兄とこの辺りの散策をご一緒させて戴いた。歩道橋を降りると左手、「ここにYMCAがあってね」と。今は赤煉瓦の「中央労働センター」がある。現在礼拝に出席の岡本太郎兄はここがかつて職場で責任者だったとのこと、無縁の官庁建物が身近に感じられる。街路樹は泰山木(タイサンボク)と花水木(ハナミズキ)。

 左手に総合病院・神戸掖済(エキサイ)会病院の古い建物が見える。大正時代は、松陰女学校があったという。1931(昭和6)年に現在地移転だが、歴史は古い。船員への援護事業のための社団法人 日本海員掖済会(明治13年創立)による経営。戦後は、一般患者の診察を行なっている。13科。353床。地域医療になくてはならない施設だが、都心過疎化のためか来年には神戸市西部に移転するという。昭和初期の建物が美しい。この病院から「神の御許へと」お送りした教会員の方たちの懐かしい面影が偲ばれる。

 三宅於愛姉、松本みつ姉、橋本貴子姉。昨年クリスマスの讃美礼拝に出席されていた、この病院の名外科医O氏一家のことなども思い起こされる。

 ここの玄関西の南面に御影石の高さ1間弱の石碑があることはあまり知られていない。英文の碑文の下には「本邦民間新聞創始者ジョセフ・ヒコ氏居址」と右横書きで記されている。下に縦書きで

「氏ハモト濱田彦蔵トイヒ縣下加古郡阿閇村ニ生ル
嘉永三年十五歳ノ時米国ニ漂流シ安政六年帰朝ス
慶応元年海外新聞ヲ創刊シ明治八年本市ニ来リ貿易ニ従事ス
同二十一年東京ニ去ル迄此西隣ニ居住セリ

 昭和十年神戸市」

 とある。彼はカトリック信者であった。

 縦の道に戻ると角に洒落たパン屋さんSATOがある。
 坂地の狭い敷地を利用したコンクリート打ち抜きのモダンな建物は、すぐ上の安井郁郎(夫人順子姉)設計室の作品だと聞く。そう言えば安井さんのビルとよく似ている。ここは松本さんの旧宅のあった所。元石垣があった。その表面が戦災でボロボロになっていて戦争のモニュメントだった、という話を花隈理容室の友兼和男さんから聞いたことがある。

 少し道を北へ登ると左手の元中宮小学校跡に中華同文学校がある。1899(明治32)年の創立。現在地には1959(昭和34)年移転している。玄関脇に「神戸中華同文学校建校100周年記念」の碑。「友愛」と記され、「兵庫県外国人学校協議会会長林同春敬贈1999年」とある。友愛の一語に、排外的国家主義の強い日本でひたすら「経済人」に徹し、市民権を得てきた華僑の労苦と強靭さを想像した。

 向かい側の路地の下手に駐車場がある。武藤兄の子供時代の屋敷跡だ。

「あのねー、ここがボクの家のあった所ですよ」

 と語られた面影が忘れられない。道を北へT字路まで上り詰めると、マンション「エメラ東洋」。西前に自然石を彫った古い「古墳碑」がある。「大正六年」とある。そこ頃までは古墳があったのだろうか。塚本家の屋敷内だったと聞いている。

 此の辺り、マンションの窓や街路には、つつじ、マーガレット、パンジー、ゼラニウムなどの花が色とりどりだ。前掲書の96ページには、武藤兄手書きの此のあたりの大正時代の地図が掲載されている。山本、三浦、高木、横田、ハウ(頌栄園長)、米沢(神戸教会牧師)、塚本、山口など、教会員宅の位置図がある。今は、山川、藤沢姉の宅、いずみ幼稚園卒園生宅もここあそことある。

 東の縦の通りに出ると、ゴルフの打ち放し施設がある。ここの喫茶店のカレーが美味しい、と言っていたのは亡き梅垣安子姉だった。緩やかな坂を下ると、左手は相良園の土塀、右手は神戸山手女子短期大学三号館。グレーの幾何学的な建物は何かの建築の賞をもらったと聞いている。元頌栄保育学院のあった所だ。かつての建物もヴォーリズの設計で落ち着いたものだった。西村元三郎画伯の作品が現在の頌栄に残っている。

 少し下ると、聖ミカエル保育園がある。かつては此の少し北に神戸女学院もあった。

 中山手界隈は、山手という地名が街の性格を示しているように、閑静で明るい。