神戸教會々報 No.154 所収、1999.5.30
(健作さん65歳)
私は1946年10月6日、日本基督教団坂祝(さかほぎ)教会で洗礼を受けた。
受洗者牧師岩井文男。当日の受洗者11名。
その日は岐阜県中濃地方、戦後開拓農村伝道の拠点として受洗者を含めて19名のメンバーにより同教会が設立された日でもある。
明治初期上州は安中、富岡でプロテスタント会衆派キリスト教に入信をした先祖らから4代目のキリスト教であってみれば、洗礼を受けること自体がそんなに特別のことであったわけではない。
「もう中学生になったのだから」そんな意識であったことを覚えている。
それから50年余、キリスト者としての、プロテスタント派の「牧師」としての、あるいは一人の人間としての、個人史、精神史、信仰史、「キリスト教」や「教会」との関係史を語り始めれば、私なりに物語がある。その物語を抜きにして「私の信仰告白」はあり得ない。少し大げさに言えば、私の半生が私の「信仰告白」なのだ。
もしかすると「私の半生」というのも随分不遜な言い方で、エレミヤ 1:4「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた」とあるように、こちらの主体の言葉としては、どのように言い表しても、それが存在や生存の関係についての「告白」である限り、未完結であり、部分性しか持たないものなのだ。
文言化された「信仰告白」はそれが語られた状況、文脈、時代、語り手の心情や表現、の制約の中にある。それが「信仰告白」の歴史性である。
祈祷会の時ご自分の信仰につき語って下さるKさんはいつも御尊父の信仰による生き方から語り始める。それは普遍化できない歴史の個別性であろう。
この2月に他界した母の納骨にあたり、母がその裏方に徹した父の生涯を改めて振り返ってみると(『敬虔なるリベラリスト』新島文化研究所編、新教出版社 1984)、継承も批判も含めてその関わりの重さは拭い得ない。
親がキリスト教であれ、仏教徒であれ、無神論であれ、人の生き方はその影響下にあって、自分の生き方の表明としての「信仰告白」がある。「私の」という一人称はそれ自身、共同性を含んでいることを忘れてはなるまい。
私は「信仰告白」の扱われ方の伝統から考えると、全体教会の「信仰告白」がまずあって、それを学び、それを受け入れるという入信の仕方をする教会に育たなかった。
「もう中学生になったのだから」と言う受洗への決心は、「神に従う」「キリストに倣う」「教会の働きに参加する」という気持ちの表明であった。
聖書の読み方も敬虔的、心情的、人生論的であったような気がする。後、神学校に進んで、カール・バルトに出会い「啓示神学」や「キリスト論的集中」といった事柄を学び、主情的(主観的)信仰の弱さの克服のために教会が伝統的にしてきた「信条」や「信仰告白」の意味を知るようになった。
牧会に出てから、信条教会と言われる長老派の伝統を持つ教会に任地を求めたことも自分の信仰への反面教師であったように、今にしては思える。
1954年「日本基督教団信仰告白」が制定された。神学校3年の時だった。当時この「信仰告白」のまとめ役であった北森嘉蔵教授より、この成文「信仰告白」が教理史的にいかに整った信仰理解を網羅しているかをつぶさに学んだ。しかし、制定に至る歴史的経緯を後々学び、その流れに対する批判的関わりとして「教団若手グループ」が「教団の戦争責任の告白」を1966年の時点で指導者に強く迫った。その仲間に私も身を置いた。それはこの「信仰告白」が「教団」をまとめる作用が強く、歴史の状況に対する「告白」の姿勢が希薄だったからである。これは後に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」となって定着した。しかし、教団諸教会は「状況に対する告白」という点では、1970年代「万国博へのキリスト教館出展問題」でも論議をもたらした。このことは現在も続いている。
個人の信仰告白と教会の信仰告白のどちらかを優先させないで、相互的に対話させることが今大事なのだと思う。そのためには、その底にある聖書解釈の歴史的多様性を受け入れつつ、「イエスとは誰か」を自分が生きている状況で、言葉と行為の分裂と戦いながら、教会の場に生きることを選んでいきたい。
「会衆派教会」の伝統はこれに耐え得るのでないか。