再び「エレミヤを読む」(1998 週報・神戸教会)

1998.10.4、神戸教会 週報掲載、聖霊降臨節 ⑲

(牧会40年、神戸教会牧師 20年目、健作さん65歳)

 かつて、私はエレミヤ書を読むにあたって、こんな文書を書いたことがあります。


”この書物と自分とが対峙するとき、ある種の恐れを抱きます。それはこの書物の『こころ』がほんとうに読めるのだろうか、という恐れです。それは日頃の私たちの生き方が、エレミヤの『こころ』をなかなか受け取れない程に、この書物の信仰のあり方や精神から遠いものになってしまっているのではないか、という恐れでもあります。

 現在の日本の社会のあり方が、自分の生存をも含めて経済的価値観優先主義、能率・管理優先主義、そのための秩序・支配・精神構造(天皇制)強化主義を軸にして動いていて、そういう生活や文化の環境の中にどっぷり浸かってしまっていると、頭ではエレミヤの苦悩や実存について理解したとしても、本当は感性として捉えきれないところがあるのではないか、という恐れです。

 その恐れを、神への恐れへと繋げてこの書物を読むことが、信仰の養いとして聖書を読むということであろうと信じています。

 別の言い方をすれば、聖書を読んで、現実の自分の生活が変えられたり、変わったり、変えてゆくことが起こらねばダメだということでもあり、また聖書を読むことは、そういう力を与えられるということでもあります。

 どうか、そのことをが教会の交わりの中で確かめ合われてゆくような読み方を、ご一緒に作り出して行きたいと思います。”


 もう10年も前の稚拙な文章ですが、読み返してその気持ちは変わっていません。

 世界の状況は、経済優先の価値観が爛熟しきり、腐敗が極度に日常化しきっている反面、幾多の試練を経て、腹を据えて社会や人間の状況に責任的に関わろうという人たちの秘かにに心の繋がりを期待し信じているのも事実です。

 しかし他方、「責任」などということには全く関係がないことを存在そのもので主張している世代の人たちがいることも事実です。

「オレには関係がない」と根源的に、人間の社会性の基盤を否定してしまう人たちとどう対話し、関わりを持ったらよいのでしょうか。(『戦後を戦後以後、考える ー ノン•モラルからの出発とは何か』加藤典洋、岩波ブックレット 1998年4月)。

 また、人間の社会性や共同性の基盤を自己の存在理由の主張から位置付けて、そこに含まれない人たちを排除してしまう、偽共同性と、どう闘ってゆかねばならないのでしょうか。

 自分自身への内なる問いと、社会に向けての外なる問いとを携えて、それを深化させつつ、「エレミヤを読む」という冒険に旅立ちたいと思います。

 神の助けを祈りつつ。


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