種蒔かれぬ地で(1998 礼拝説教・エレミヤ)

1998.10.4、神戸教会、聖霊降臨節 ⑲、
翌週の週報に(先週説教要旨)として掲載

(牧会40年、神戸教会牧師 20年目、健作さん65歳)

エレミヤ 2:1-9

 自分をどう理解するのか。そこが信仰の問題だ。

 だが、熱心であるとか、純であるとかの問題ではない。それは何がしか「倫理的」であろうとする歪曲であろう。

 それを根底的に砕かれ、それでもなお導かれたのが、聖書のイスラエル民族の「出エジプト」の経験であった。


 出エジプトの指導者モーセを通して与えられた「十戒」は、その冒頭で「わたしは主……あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト 20:1)とその出来事を告げる。

 そして「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」と第一戒が示される。


 奴隷からの解放(H .コックスはこれを政治の非神話化だと解する)は、君臨するこの世の政治権力エジプトの王ファラオの力の及ばない場に、奴隷が人間となって(愛の関係のうちに)存在することを知らしめた「神の歴史への救い」の宣言であった。

 申命記は、この事柄を「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」(申命記 7:6-8)と理解する。

 イスラエル民族は、このことを本当に理解し、信じ、その事柄が歴史の中で「血となり肉となる」までの戦いをしたのであろうか。

 旧約の歴史書や預言書を、今なお、私たちが読む意味は、その同じ問いをたずさえ持つことだ。そこに信仰の課題がある。


 エレミヤは「バアル」(パレスチナで礼拝された土地や家畜の生産力を支配する神の名)に政治・経済・社会などが絡め取られて、腐り切ったイスラエル民族と相対して預言活動をする。

「出エジプト」を想起して「種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」(エレミヤ 2:2、申命記 32:10参照)と語る。

 8節で「バアル」との戦いを、内面的にも社会的にも放棄をした「祭司」「律法を教える人」「指導者たち」「預言者たち」が批判される。


 今日の日本社会ではこの位置になぞらえられる人々は誰か。

 しかし注目すべきは8節の最後。新共同訳では主語が訳されていないが原文は「人々」が主語(関根正雄訳には訳出)。つまり民族も「助けにならぬものの後を追った」と指摘する。


「神戸空港住民投票」につき論じた島田誠氏(元町海文堂店主、毎日新聞 10/3)は、今まで、市政をお任せしてきた市民の結果責任を厳しく問うている。この自覚がなければ35万票は力を発揮できないであろう。

 エレミヤの叫び、苦悩する預言者の存在そのものが、救いの具現であるなら、今日、私たちもその後に続きつつ、神の救いに参与する喜びを宿したい。


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