開かれた回路(1998 ヨハネ・ニコデモ)

神戸教會々報 No.150 所収、1998.4.12

(健作さん64歳、牧会41年目、神戸教会牧師21年目)

人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。 ヨハネ 3:3


 今年度の教会標語に表記の聖書の言葉を選ばせていただきました。

 イエスがニコデモに投げかけた言葉です。

 ニコデモという人の地位や人柄を考えると、これは相当に厳しい言葉です。

 彼はユダヤ教パリサイ派の超エリートで、最高法院の議員、かつユダヤ教の教師(ラビ)です。伝統的なヨハネ福音書の釈義では、彼はイエスを尊敬していたけれども、パリサイ派から敵視されていたイエスを訪ねるにあたっては、我が身可愛さに人目を避けて「夜」出かけた、ということになっています。だからといって、ヨハネがニコデモを彼の福音書に登場させたのは、全実存をかけない優柔不断な「信仰者」の見本、それを通しての戒めを語るためではありません。

 彼は危険の中でイエスの弁護をしますし(7:50-51)、政治犯イエスの遺体を高価な香料を持参して埋葬します(19:39-40)。ユダヤ教の中では、彼は開かれた心を持つ良質な部分です。そのニコデモに対してイエスは、何故初めから彼が誤解をし、つまづくような言葉で対応したのでしょう。

 しかし、ヨハネ福音書をよく読むと、そこには深い訳があり、またニコデモのつまずきは当然でもあり、しかもそれでよいのです。

 ヨハネは一方で「『あなたがたは新たに生まれなければならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(3:7)と告げています。

 ニコデモほどの理解力のある人もつまずくことを一方で突き付けながら、他方で、驚くに及ばないという二重性こそがヨハネ福音書の持ち味です。そもそもニコデモが誤解した「新たに」は、「もう一度」という意味を二重に持っています。ヨハネは「上から」を「霊から」と言い換え、それは「肉から」ではないと説明します。ヨハネの「肉」とは、地上的なもの、外面だけのもの、現代流に言えば自己完結的なもの、閉ざされた回路、という意味です。ユダヤ教の自己理解で完結してしまって、外につながらない状態です。

 これに対して、ヨハネは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3:16)と、回路の閉塞は神の側から破られていることを告げます。この出来事を「上から(新たに)」の事だ、と言っているのです。

 このことは、既に起こったことなのだ、だから「上から」と言ったところで驚くには及ばない、というのです。

 だから、ニコデモへの言葉は、一面、審くような厳しさを持ち、多面、驚くに及ばないという励ましと慰めをもっています。

 この二重性を読みとることが「救い」を聴き取ることなのです。

 ヨハネ福音書は「世」という言葉を78回使っています。そのほとんどが「ユダヤ人」と同義です。紀元1世紀末のユダヤ教側からの迫害に耐えていたヨハネの教会が、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という時、「世」には「敵」であるユダヤ教も含まれていたのです。しかし、それはただ観念的なことではありませんでした。閉ざされた世に対して、「お与えになる」という言葉が意味している「十字架の死」を通しての神からの関わりでした。だから、世は、こちら側からは閉ざされているが向こう側からは愛によって開かれているという、半導体の回路のような位置付けを与えられています。

 闇の世に光が輝いているとはヨハネ福音書の1章の冒頭の言葉です。この表現には妙な感じを抱きませんか。光が輝いているのに昼ではないのです。闇が厳然としてあります。しかし、光もまた公然と輝いています。他の表現で言えば

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(16:33)

 ということです。

 さて、昨今の「世」の状況を非常に象徴的に語っているのは「小学校での学級崩壊(NHK クローズアップ現代 4月2日)」などです。生活の内実の希薄さに対する子ども反乱を読み取りますが、これに対する「大人」の対応が、生活のかたち(言葉の空疎化を含め)を厳格に押し付けていくというやり方です。

 閉塞状況を抱え込みながら、いやになっちゃう状況を足元から一つ一つ崩しつつ、同時に傷の癒しを祈り求めつつ生きることが、「新たに」の意味だと思います。なまじっかではダメだということと、回路は閉塞していないという希望を込めて、表記の聖書の言葉を噛みしめたいと存じます。

 ニコデモのように、イエスの遺体にふれるほどに、沈滞することが、上昇思考の乱気流の世を生き抜くことではありますまいか。


error: Content is protected !!