1997.4.13、神戸教会
復活節第3主日礼拝週報
(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)
《この日の説教》
創世記 1:1-2、ヨブ記 38:4-6、「天地創造」岩井健作
マタイ福音書の最後の言葉は、堂々として力ある宣言である。
”わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。”(マタイ 28:20、新共同訳)
「神は我々と共におられる(インマヌエル)」(マタイ 1:23)
は、マタイ福音書の冒頭の信仰告白であることを考えれば、その信仰を受け入れ、慰めを与えるマタイの首尾一貫した思想が見られる。
しかし、ここで一つだけ注目しておきたい。
「神が共に在す」と告白され、また宣言されている、マタイ福音書の教会の状況には、始めと終わりでは、一つの変化が鮮やかに見られる。
それは、ユダヤ人にイエスを宣べ伝える使命を中心としてきたこの教会が、ユダヤ人以外の諸国民への宣教に軸足を変えているということである。
例えば、10章5節では、弟子の派遣に際して
”異邦人(エスネー)の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。”(マタイ 10:5-6)
とあるのに、28章19節の弟子の派遣では、
”あなたがたは行って、すべての民(異邦人:エスネー)をわたしの弟子にしなさい。”(マタイ 28:19)
と述べられている。
ここには、教会の直面している使命の転換がはっきりと出ている。
マタイは、「復活」をこのような使命の転換を可能にする力として捉えている。
きっと、マタイの教会の中では、イスラエルへの伝道から、異邦人の伝道への軸足を変えることで、大議論をやっていたのかもしれない。
何故なら、ユダヤ的伝統からの救いの理解を超えることであったであろうから。
この軸足の変化の文脈で、あのマタイの最後の言葉を聞くと、改めて、信仰の戦いの現実の中での生きた言葉となる。
日本の教会の宣教の軸足は、「神の正義」という視点を、日本の社会的状況の中に入れ込むかどうかで、絶えず変化を求められてきた。・
近代日本の形成の中で、封建遺制を破って個人の人格を確立する側面での働きは、キリスト教の大きな力であった。
しかし、それが社会的文脈での正義にまで及んだ時、特に国家とのぶつかり合いで、キリスト教の歩みは困難を極めた。
しかし、その軸足を変化の中に身を置いて「神は我々と共に」を告白し、「いつもあなたがたと共に」を信じてきた多くの信仰の友がいることも事実だ。
先日、宮澤豊牧師(同志社卒業、神戸教会で派遣神学生。苫小牧弥生教会牧師、34歳で死去)の3周年記念会が「教団部落解放センター」の主催で行われた。
参加者の幅の広さは、教団の宣教の軸足が少しずつ移っていることを思わせた。
(1997年4月13日 神戸教会週報掲載
岩井健作)