1997.3.2、神戸教会
復活前第4主日・受難節第3主日 礼拝週報
(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん63歳)
《この日の説教》
マタイによる福音書 16:21-28 「自分の十字架を負う」岩井健作
今年の四旬節(受難節・レント)は、2月12日(水)《灰の水曜日》から3月29日(土)《カトリック用語:聖土曜日》迄です。
そのうち、3月23日(日)《復活前第1主日・四旬節第6主日・棕櫚の主日》から3月29日(土)までが受難週。
今年の復活日(イースター)は3月30日(日)です。
この間の聖書日課は、福音書(イエスの生涯、受難)が選ばれています。
今週の日課を記します。
3月3日(月)ルカ 19:28-48
(新共同訳見出「エルサレムに迎えられる」「神殿から商人を追い出す」)
3月4日(火)ルカ 20:1-8
(新共同訳見出「権威についての問答」)
3月5日(水)ルカ 20:9-19
(新共同訳見出「『ぶどう園と農夫』のたとえ」)
3月6日(木)ルカ 20:20-40
(新共同訳見出「皇帝への税金」「復活についての問答」)
3月7日(金)《世界祈祷日》ルカ 20:41-21:4
(新共同訳見出「ダビデの子についての問答」「律法学者を非難する」「やもめの献金」)
3月8日(土)ルカ 21:5-19
(新共同訳見出「神殿の崩壊を予告する」「終末の徴」)
日課を読む、ということで、ふと心をよぎった讃美歌の話は、先週説教の中で触れました。
讃美歌454番「うるわしき朝も」という子どもの讃美歌の2節です。
”わがままをすてて ひとびとを愛し
この日のつとめを なさしめたまえや”
(讃美歌454番2節、日本基督教団出版局)
「わがままをすてて」
自分の考え(人生観、教訓、哲学、神学など)をテキストに押し付けるのではなく、テキストそのものの持つ文脈における固有な語りかけに心を開いて読むということ。
「ひとびとを愛し」
自分の充足のためにではなく、他者との関係に開かれていくように自分が帰られつつ。
「この日のつとめを」
日々変化する状況の中で、たゆまず、日々の務めとして、聖書を読む。
「なさしめたまえや」
「させてください」という意味。つまり祈りをもって、あるいは「聖霊」の力を受けて読むということへの暗示。
ふと思いついたのですが、なかなか示唆に富む讃美歌の広がりでした。
さて、新共同訳で福音書を読む時の便利さは、並行箇所が記してあることです。
ルカを開けて、マタイ・マルコの2箇所が記してあれば、マルコが原本で、ルカとマタイがその改訂版と思って良いでしょう。
並行箇所が何もなければ、ルカの特殊資料。
マタイのみ記してあれば『Q資料』(マタイとルカが用いたイエスの語録資料)です。
そして、その並行箇所を同時に読むことで、ルカ福音書の特徴や筆者の信仰意識、神学的主張を読み取ることができます。
そこで気づいたことを温めてゆくと、聖書の読み方が深くなります。
さて、今朝は日曜日の聖書日課の中から、マタイ 16:21-28(新共同訳見出「イエスの受難予告」)を選びました。
(その他:詩編 119:97-104、イザヤ書 59:15-20、マタイ 16:13-28、第一ペトロ 2:19-25)
並行箇所マルコ 8:31以下と較べると、ずいぶん特徴があります。
マルコのペトロは、イエスを非難する無理解者ですが、マタイのペトロは、邪魔をする信仰の不完全者になっています。
テキストが温和になっています。
マタイの教会が「守り」になっています。
紀元1世紀・西暦90年代のマタイの教会の状況がそこにはあります。
教会は「守り」にまわる時、イエスから遠くなっているのではないでしょうか。
(1997年3月2日 神戸教会週報掲載
岩井健作)