神戸教會々報 No.144 所収
1996年2月25日(復活前第5主日)発行
(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)
友よ、パンを三つ
貸してください。
(ルカ 11:5)
「祈りを教えてください」と思わず弟子の一人が言ったという。イエスが祈り終えた時のことである。イエスの祈る姿が活き活きと魅力的だったに違いない。
僕らでも恋人が、あるいは仲のいい夫婦がちらっと瞳を合わせてささやいている姿を垣間見たとき、その豊かな関係に魅せられる。そのようにその弟子は魅せられたのであろう。
彼とて、ユダヤ教の家庭で「祈り」は教えられていたであろうに、それは無味乾燥の恋愛論や夫婦論のようなものだったのかもしれない。人は恋愛論を学んだからといって恋が出来るものでもあるまい。
祈りの豊かさに魅せられた者たちが伝えた短いイエスの祈りは、後々幾多の伝承者を経て、かなり式文化されてマタイ(6:9-13)とルカ(11:2-4)の両福音書に収められている。
さらに、マタイはこの「主の祈り」を「偽善者のようであってはならない」(マタイ 6:5)という文脈におき、ルカは「求めなさい。そうすれば与えられる」(ルカ11:9)という格言に結びつけている。
「求めなさい」という格言(マタイ、ルカ共に用いたQ資料)は、マタイでは祈りとは関係のない所に出てくる(マタイ7:7)。
ここから推論すればルカは「主の祈り」と「求めなさい」とを結びつけるために、「真夜中にパンを求める友人」のたとえ話を、ここに引用したと思われる。
しかし「真夜中にパンを求める友人」の話は、元来「求めること」の例話ではなく、それ自身もう少し魅力的な独立した話であることに気付かされた。
それは最近の研究者が、このたとえを5節〜7節までとし、「しかし言っておく。その人は友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(8節)は、ルカの編集句だと指摘していることに関連している。
研究者は5節〜7節を次のように復元する。
”あなたがたのうち誰れかに友人がいて、真夜中にその人のところに行って『私を突然訪ねてきた旅人のため必要なパンを貸してくれ』と言ったら、この友人は『迷惑だ』と言って君の願いを断ったりするだろうか?”
7節の終わりは修辞疑問文といって、問いかえしの文体だったとされる。
すると「否、誰れもそのような願いをむげに断ったりしない!」という答えが暗に予想される。
これは、旅人を真夜中でももてなすパレスチナの習慣をみなが守っていて、貧しくても心のつながりをもって助け合っていた村人の日常をよく表わしているという。
イエスがたとえを語ったということは、たとえで或る大切な真理が伝わるという聴き手への信頼を示していることである。
パレスチナの村人の助け合う生活経験を良しとされ、その豊かさへの洞察を持たれたということだ。
エルサレムの都市のパリサイ派や律法学者には、このような「たとえ」で語る語り口では事柄が伝わらなかったのではないか。論理で語れば、議論が起こったかもしれない。しかし、それは、恋の経験のないものの恋愛論にも似ている。
ルカが「しきりに願うので」の方に強調点をずらしたのはルカなりの必然性があったと考えられる。しかし「しきりに願う」という主体的行為への促しさえも、助け合って生きているという事実があってのことである。
これらを「神の愛」の現実と表現するならば、その現実が先行していることに基づいての促しがある。
このことは、究極的には、物事を「神の支配」の許に肯定的、積極的に捉え、信じていることでもある。
物事を批判的に捉えることは大事だと思う。しかし批判的ということは、内省的あるいは自己批判的であることを絶えず含む。そういう意味では根本的に否定的とは異なる。
否定的とは、自己完結的・自己充足的であり、祈り(関係)を持たないことに通じる。そうした意味で、たとえで語るということは基本的に否定的(negative)ではあり得ない。積極的(positive)である。
イエスがたとえで神の国を語ったことは、我々の生を包んでいて下さっていることでもある。
そのような視点からみると、一日のうちには「探す者は見つけ」とあるように、たくさん捜し出す宝があるように思われる。
神戸新聞の「発言」(1月24日)に、雪で孤立した篠山の山村に、優しさや助け合う心が豊かにあって、感動をしたという投稿があった。日常のささいな喜びを文章にして出す52才の女性の感性にうたれた。
都市化・工業化で失われたものが、過疎の中に保たれていることに大きな励ましを受ける。
「友よ、パンを三つ貸して下さい」
こんな美しく温かい話を大切にしたい。