1996.1.28、神戸教会週報、降誕節第5主日
(阪神淡路大震災から1年と10日)
(神戸教会牧師19年目、牧会38年、健作さん62歳)
(この日の礼拝説教)ローマの信徒への手紙 12:1-8、説教「一つの体を形づくる」岩井健作
「教会」のことに思いを巡らすならば、私たちは二つのことに心を注がねばならない。
第一は「信じる教会」であり、第二は「体験する教会」である。
第一の事柄「信じる教会」について。
私たちは神を信じる。それはイエスという一人の方においてご自身を示された神を信じる。
十字架の死に極まる生涯とその振る舞い、そして言葉によって、いわゆる「お守り」のごとき「神」なき人間の闇を、生き切られたその一人の方を「救い主(キリスト)」と告白する信仰によって「教会」は成立した。
その告白の根拠をも、人間自らの内に見出すのではなく、神の(聖霊による)働き、すなわち、神にのみ依る恵みと受け取るところに、教会は成り立つ。
使徒信条では、そこのところが「教会を……信ず」と告白されている。教会は信じるものなのである。
教会の創立と保持は神の意志にある。このことを信仰的に明確にしておかないと、教会は世俗化との緊張関係に破れるものとなるだろう。
パウロは教会を「キリストの体(共同体)」と表現したが、このことには深い意味が秘められている。
私たちは、この「教会の信仰」ともいうべきものを深めたい。
第二の事柄「体験する教会」について。
教会が体験されるべきものとは、それが歴史的存在であり、まさに醜い人間のわざと共にある。
教会は「霊的」であると共に、肉的・地上的存在であり、この二つの事柄は分け得ない。
歴史的にも、教会は多くの教派への分裂の歩みとして存在しているし、改革・変革が絶えず指向されてきた。
教会は一方で「神からのもの」と聖別されつつ、他方で、神が人間と連帯(和解)し給うた「福音」を生きる故に、あえて世俗化の危険に身をさらしつつ、この世と連帯的に生きる。
このあり方を「連帯的拒否」と言った人があるが、意味深い。
現代の教会理解。
教会は存在論的に把握できないものだ、宣教の使命を果たす機能として捉えるべきだ、との傾向が強くなっている。
このことは、日本でも戦後50年を顧みる時、教会が信条や礼典や職制において正しく存在したか、よりも、戦争に対し、弱者に対してなど、どのような使命を果たし、イエスによって示された神の真理や愛を現実的に具体化したか、の面から見るようになってきている。
少し難しい表現になりました。しかし、基礎的に大事なことだと思います。
考える手がかりにして下されば幸いです。
(1996年1月28日 神戸教会週報 岩井健作)