1995.12.24、神戸教会
待降節第4主日、クリスマス礼拝
(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん62歳)
聖書:フィリピの信徒への手紙 2:4-11、説教「我らも主をほめん」
(クリスマス礼拝出席222名)
もう老境を迎えて、お二人だけの生活になっているTさん夫妻をお訪ねした時、毎年さりげなく集まっている「家庭クリスマス」のプログラムを見せていただきました。
ご子息・ご息女の家庭が集まって、幾人ものお孫さんたちの賑やかな声が聞こえてくるようでした。
讃美歌・聖書はもちろんですが、孫たちの心に残ることを願って「主の祈り」が入っています。
そして、第二部は楽しい祝会で、子どもたちが主役になっています。
子どもたちもきっと年毎に趣向を凝らして来るのでしょう。
家族のクリスマス。
そして、そこに祈りがある、ということ。
それを楽しく続けていること。
私はそこに現代日本の社会潮流への抗(あらが)い、あるいは証しを覚えました。
弁護士の杉井静子氏が「オウム事件と現代家族」という論考の中で、若者がオウムに入信する背景を、典型的な日本の《家族の弱さ》として捉えています。
「今の日本の家族は、みんな忙しい。親は長時間労働、子供は塾に習い事と、日常生活の中で各自がバラバラに動いている。……ここ20年ばかりの間に、若者が『家族を捨てる』下地ができつつあったと思えてならない」。
そして弁護士さんらしく、公判で、オウムから戻った娘たちに「許す」と語る父を紹介しています。(神戸新聞 1995.12.21)
かつて『「イエスの方舟」論』(春秋社 1985)を著した芹沢俊介氏も、あの出来事の下地は《家族の問題》だと指摘しました。その論の鮮やかさを今も思い起こします。
讃美歌101番「いずこの家にも」は、宗教改革者ルターの作品ですが、家族のクリスマスの情景をほのぼのと浮かび上がらせています。
「天使」と「子ども」の交唱で、メッセージと応唱になっています。
神の使信を聴き、それに応える、という生活そのものの道程が「信仰」なのです。
「いずこの家にも、めでたき音ずれ」と第1節は始まります。
”いずこの家にも、めでたき音ずれ、伝うるためとて、天よりくだりぬ。馬槽(まぶね)のそばにて、マリヤが歌える、み歌に合わせて、我らも主をほめん。”(讃美歌 101番、1節・6節)
クリスマスの音ずれが、ヨセフとマリアとイエスという家族の構図の中に伝えられていることに、深い意味を見出します。
フィリピの信徒への手紙 2章4〜5節に「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それは、キリスト・イエスにもみられるものです」とあります。
”めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それは、キリスト・イエスにもみられるものです。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。”(フィリピの信徒への手紙 2:4-8、新共同訳)
これは理屈ではなく、家族の中で育まれるものです。
忍耐、尻拭い、愛、希望の錯綜した生活があります。
《恵み》はそこに宿るのです。
震災が見直させたのも《家族の絆》です。
子どもたちを、現代技術・経済万能の価値観に奪われない戦いをしようではありませんか。
(1995年12月24日 神戸教会週報 岩井健作)