イエスは「知恵」《マタイ 11:28-30》疲れた者、重荷を負う者(1995 週報・洗礼・説教への手がかり)

1995.9.10、神戸教会
聖霊降臨節第15主日、洗礼式

(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん62歳)

マタイによる福音書 11:28-30、説教「疲れた者、重荷を負う者」

”疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」”(マタイ 11:28-30、新共同訳)


 聖書を読んでいくと、イエスの人格と彼のもたらした救済の意義を言い表すために、色々な称号がつけられています。

「神の子、ダビデの子、キリスト」などがその例です。

 最近は「導き手」(使徒言行録 5:31、新共同訳)も一つの称号だったと指摘する人がいます。

 初期のキリスト教は、イエスを「預言者の一人」(マルコ 8:28)というユダヤ教に対して「メシア(キリスト)」だと告白し、他方、ローマ世界ではローマ皇帝が「主(キュリオス)」だと称するのに対して「主はイエス」という告白をしています。

 信仰告白は、状況の中での、信徒の生き方、教会のあり方の表明である事が示されています。


 さて、イエスとは誰か、を言い表す仕方の一つに、「イエスは知恵の教師」あるいは、神的な「知恵」そのものであるという言い方があったのではないか、と指摘する研究者があります。

 聖書の中には「主を畏れることは知恵の初め」(箴言 1:7、ヨブ記 28:28)とあるように、知恵思想の系譜というものがあります。


 例えば、ユダヤ人は、聖書(我々の持っている旧約聖書)を、三つに分類しています。

 トーラー(律法)、ネビイーム(預言者)、ケスビーム(諸書)。

 これを「真理の伝達の仕方」つまり「コミュニケーション」の視点から見ると次のように言うことができます。

 神は「トーラー(律法)によって」神と人との関係の秩序を伝えています。

「あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない」(出エジプト 20:3)

 神は「ネビイーム(預言者)によって」歴史の状況の中で神の言葉を聴くこと、そして生きることを伝えています。

「ケスビーム(諸書)」は文学であり、さまざまな文化の中に含まれている「知恵」です。

 この「知恵を通して」神を知ることが、知恵思想の系譜です。


 この知恵思想の系譜の中に、イエスの語録(マタイ・ルカが共通して使った資料:Q資料)を収集したグループがあります。

「知恵の正しさは、その(イエスの)働きによって証明される」(マタイ 11:19)といったマタイ福音書には、イエスを「知恵」と理解する傾向が強くあります。

”しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」”(マタイ 11:19後半、新共同訳)


 マタイは一方で、イエスを歴史の中でみるマルコに依拠しつつ、他方でパリサイ派の知恵に対抗して「幼子のような者にお示しになる」(マタイ 11:25)知恵者イエスを伝えようとしています。

”そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。”(マタイ 11:25-26、新共同訳)


(1995年9月10日 神戸教会週報 岩井健作)

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