1995.5.14、神戸教会週報、復活節第5主日・母の日
本日説教のために
(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん61歳)
申命記 10:12-22、説教「愛があるから」
”イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。”(申命記 10:12-13、新共同訳)
旧約聖書・列王記下22章の冒頭部分は次のように書き始められています。
”ヨシヤは八歳で王となり、三十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をエディダといい、ボツカト出身のアダヤの娘であった。彼は主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった。”(列王記下 22:1-2、新共同訳)
歴史家が一人の王の事績を語る時、その母の名を語るというのは、よほどの事でありましょう。
さて、このヨシヤ王の治世の18年目(BC 621)、神殿工事中に一巻の巻物が発見されます。
これは昔のモーセの遺言の形で書かれた「神の律法の書」でした。
内容を読んだ王は驚き、これを公布して、これに基づいて宗教改革を断行しました。
何故なら、紀元前7世紀の当時、この国では星を拝んだり、モレクの神に人身御供を供えたり、アシラ神の偶像を作ったり、宗教は利己心の投影でしかない乱れた現状であったからです。
現在の旧約聖書の「申命記」の5章から28章が、その当時発見された部分で「原申命記」と呼ばれています。
ここには強力な中心思想があります。
「ひとりの神のみ礼拝せよ、それはただ一つの聖所で礼拝されるべきだ」と。
このことを強烈に説いたのは、ひと時代前のアモス、ホセア、イザヤという預言者たちでした。
しかし、彼らの運動は、現実政治や宗教文化の前に挫折をしました。
けれども、壁に秘め込まれた一片の文書、律法の書、むしろ預言者的説教が、言葉として力を持ったのです。
ヨシヤの宗教改革は彼の死で挫折し、国は滅亡し、イスラエルの民族は苦難のバビロン捕囚へと引き入れられます。
しかし「申命記」の思想を持った人々が、歴史編集の仕事をします。
今までの史料に「申命記的加筆」を加えながら、一大歴史書にまとめ直したものが、旧約聖書の創世記から列王記に至る文書として、今私たちが手にしているものです。
そして今日もユダヤ人の心は、この申命記の中心思想をどう生きるか、に集中しています。
”聞け(シェマ)、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。”(申命記 6:4-5、新共同訳)
”今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。”(申命記 6:6-7、新共同訳)
申命記(第二の律法 ”Deuteronomy”)を、律法・法・戒律と表面的に捉えるのではなく、ホセアが苦しみつつ説いた「愛」の系譜で捉えるとき、この書の真価が、現代に伝わってくるのではないかと思います。
(1995年5月14日 神戸教会週報 岩井健作)