1995.5.7、神戸教会週報、復活節第4主日
(神戸教会牧師18年目、牧会37年、健作さん61歳)
詩編 146:1-10、説教「ほめ歌をうたう」
雑感
4月26日(水)
祈祷会。Y夫妻の証し。受洗以来4ヶ月、戸惑いながらも祈りを生活の中に、と真摯に子息S君を含めて、歩み始められている家族像に感動を与えられた。
4月27日(木)
教団の震災救援運営委員会が当教会で。私は兵庫教区選任の委員として出席。
東京(長崎氏)、四国(小原氏)、大阪(有澤氏)各教区委員を、兵庫区本町公園の教団による応急仮設ハウス建設現場視察に案内する。
4月28日(金)
東海教区委員(北・小林牧師)を前日と同じコースで案内する。
4月29日(土)
結婚式。T兄とK姉は11年間の交際、幾多の生活と交際の危機を、まさに神の導きで越えてのゴールイン。祝福豊かなれ。
4月30日(日)
結婚7年で夫を天に送ったT姉の記念会。和室で。切なる祈り。
(1995年5月7日 神戸教会週報 岩井健作)
詩編146編について(本日の説教のために)
主をほめよ、わがこころ
いまわのときまで
わが生くる日のかぎり
主をたたえまつれ
(讃美歌20番)
ドイツの敬虔派のヨハン・D・ヘルンシュミット(1675-1723)の作詩による、この讃美歌の源泉になったのが、詩編146編です。
この詩編は、詩編の類型分類からは「ハレルヤ詩編(讃美の歌、146ー150編)」に属します。
成立はペルシア時代(BC539-333)以降です。
3節に「君侯に依り頼んではならない」とありますから、この人の生きている社会的な立場を表しているのでしょう。
詩編は歌われるものであって、解説されるべきものではない、と昔から言われますが、冒頭の「ハレルヤ」は会衆の神讃美への招詞の働きをするものです。
”ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ。命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう。”(詩編 146:1-2、新共同訳)
”主をほめたたえよ。わたしは生けるかぎりは主をほめたたえ、ながらえる間は、わが神をほめうたおう。”(詩篇 146:1-2、口語訳)
そして10節の頌栄の後、もう一度「ハレルヤ」(ヘブル語で「ヤー《神》を賛美せよ」)が出てきます。
これは、初めの時よりも次元が高められ、一層高揚した心をもって繰り返されたものでありましょう。
”主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ。”(詩編 146:10、新共同訳)
この詩にはリズムがあります。新共同訳・関根訳に比べて、口語訳・勝村訳の方がリズムがよく出ています。
”主はとこしえに統べ治められる。シオンよ、あなたの神はよろず代まで統べ治められる。主をほめたたえよ。”(詩篇 146:10、口語訳)
この詩には、旧約聖書の基本用語(おそらく当時の人たちは、その深い意味を体と生活で知っていたと考えられます)が、よく出てきます。
それらの言葉を、例えば「引照つき聖書」や注解書(勝村弘也『詩篇注解』日本基督教団宣教委員会発行 1992)を用いて、関連箇所と並行して味わってみると、各人の黙想や思考を促され、大いに信仰の養いになります。
(1995年5月7日 神戸教会週報 岩井健作)