身近の皆様へ(1995年2月末 書簡・震災)

(個人的な挨拶として出した手紙)
1996年版『地の基震い動く時』所収

(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)

拝啓 

 地震以後、曜日や日付を中々思い出せないような早さで時が流れてしまいました。

 何とか皆様にお便りをと願いながら押し寄せる日々の待ったなしの対応の連続で、失礼を知りつつ過ごしてしまいました。その間を支えて下さった皆様の数々の心温まるご好意への御礼がかくも遅れ、申し訳なく心からお詫びをいたします。


 暗闇の地底からドッドッドードカーン、衝撃に突き上げられて、無我夢中で幼稚園の運動場まで抜けでました。

 1月17日午前5時46分。室内はあらゆる物の落下散乱でした。築35年の木造牧師館は無事。近所の安否を確かめて回った後、倒れたロッカー、戸棚をかきわけて教会内を点検したら、築63年のコンクリート造りの会堂は塔屋の4本の柱に鉄筋が出てしまう亀裂が入りましたが、倒壊は免れていました。建物の丈夫さもさることながら、活断層の線上ではなく、段丘地で地盤が固かったのです。

 その後は、教会員・幼稚園児の安否を手分けして、電話、訪問等で問う作業、近隣教会・教区諸教会の安否、当面の片付け等をしているうちに、4日目からは教会が神戸市の遺体安置所となり、まずは3遺体が運び込まれるやら、教会員家族の柩をお預かりするやらが続きました。火葬能力一日180体で、10日以上待ちの柩にドライアイスがないといった有り様です。それにしても、密葬を含めてお葬式を3回もいたしました。

 しかし、22日(日)は21名の人と主日礼拝を、そして交通機関の回復と共に36名、57名、69名、79名(通常は120名)と真剣な礼拝を重ねてきています。

 幼稚園も半数弱が通園可の1週間後に、とにかく再開しました。

 地震と同時に、実に沢山の方が心配して下さり、寒いのに公衆電話に並んで安否を尋ねてくださる方、往復ハガキを下さった方、更には、片付けを応援して下さった方、遠い所から当座の食料・ガスボンベ・気遣いいっぱいの日用品・水・薬などを担いで来て下さった方、お見舞いのご芳志をお送り下さった方、かくも多くの方々に支えられているのだという交わりの厚さに感動する毎日でした。

 水のない生活がしばらく続きましたが、県庁の近くなので、割と早く出るようになりました。ガスは当分駄目でしょう。それでもあちこちに呼ばれて、お風呂も地震以来38日間で6回も入りました。

 今教会は、アジア協会などの物資の集積地になりボランティアが出入りしています。私も国際ロータリークラブから災害用に贈られた50ccバイクで、様々な訪問・問安を行い、300Km近く走りました。市内は自動車は身動きのとれない状態です。

 二人とも風邪もひかず殆ど休まずがんばってきました。

 さて、マスコミの情報でかなり詳細にご存知でしょうが、この度の地震はほんとうにすごいものでした。バベルの塔の崩壊で示されているように、まさに人間の文明に対する徹底した神の問いです。さらに、このことで人間関係までがくずれていく修羅場を見るとほんとうに悲しくなります(もちろん美しい話はたくさんあります)。直下型地震は局地的であり、極大の被災をもたらしていながら、その外側にいる者にはそれが伝わらないという断絶があります。

 震災地のただ中にあればこそ、支援者の役割を担う者の責任を(そんなことは不可能と承知しつつ)私たちは感じています。事態は長期戦になるだろうと思います。マスコミなどの関心が外されていく中で、沈んでいく部分が多くなると思います。ライフライン、交通、住宅、失業、希望を、祈り支えていく働きに何とか踏みとどまっていきたいと思います。

 今のところ、毎日毎日が戦いです。

 皆様のドーンと力あるお支えが、どんなに私たちを勇気づけて下さったかをとりあえずご報告し、御礼の言葉とさせていただきます。今後とも、祈りのうちにお覚えください。

 最後になりましたが、皆様の上に神の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。

敬具
1995年2月

岩井健作
溢子

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