1994.12.11、神戸教会週報、待降節第3主日、震災の一ヶ月前
(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん61歳)
ヨブ記 12:1-13、説教「知恵と力は神と共にあり」
”知恵と力は神と共にあり、深慮と悟りも彼のものである。彼が破壊すれば、再び建てることができない。彼が人を閉じ込めれば、開き出すことができない。彼が水を止めれば、それはかれ、彼が水を出せば、地をくつがえす。力と深き知恵は彼と共にあり、惑わさる者も惑わす者も彼のものである。”(ヨブ記 12:13-16、口語訳)
今日はヨブ記の概説的な事を記します。
ヨブ記とは
旧約聖書39巻中、18番目の書物。日本語訳で52ページの分量、42章にわたる文学作品である。旧約聖書諸文書をその成り立ちや性質からギリシア語訳聖書に従って4区分すると、その第3部門の「詩歌と教訓」の中の一書物である。元来のヘブル語原典では、全体を3区分とする。①律法(トーラー)②預言者(ネビーム)③諸書(ケスビーム)。ここでは③諸書の中に入れられている。
執筆年代は
紀元前400年頃。原資料の上に後世の挿入部分がある。
何が問題なのか
信仰に関わる生き方を、「律法(トーラー)」は神の戒めを守ることとして、「預言者(ネビーム)」は神の戒めを時代の中で聴くため、イスラエル民族の悔い改めの問題として扱っている。
しかし「諸書(ケスビーム)」は信仰の問題を、神から人へではなく、人から神へという方向で、言い換えれば文学的手法で、個人的・実存的・経験的・普遍的事柄(民族に対して)として捉える。
ヨブ記はその代表的文書である。
文学的構造
1ー2章は古い民間伝承によるヨブ物語。義人ヨブは試練に遭うがなお神を讃美する。神讃美は因果応報教説とは別であるという主張がある。
3ー27章は詩文。ヨブと3人の友人との神学的討論がある。
友人は因果応報の教義を掲げ、ヨブは苦悩する者の不条理から対論するが、噛み合わない。そこに戯曲としての含蓄がある。
28章は「知恵」について、29ー31章はヨブの最終弁論。
32ー37章は後代の挿入(31章までを総括したエリフの弁論)。
38ー42章は、神の応えとヨブの応答。
そこでは、義人の不条理の苦難を神に激しく問うヨブに、答えは与えられず、逆に、創造の世界が示され、「苦難」を一つの立場としてそれに固執するヨブの根底が問われ、神の問い(恵みとしての関係)の前で、無知と被造性の自覚を持つところに救済が示される。
思想内容
因果応報の教理を問い、宗教の功利的役割を否定する。
神の真理を個別的・実存的経験の内側へと問い返すことで、逆に民族を超え、神の創造による世界への立ち返りを示唆する。
信仰生活・教会生活でヨブ記を読む意義
宗教を功利的に信じている人がいかに多いか。
そこを越えなければならない。
苦難が神へと魂を向けさせること。
現代の世界を破局へと向かわしめている「人間中心」に対して、苦しむ者からの問いを受け、共存、そして徹底した被造性の理解を学ぶことの大切さがここにはある。
(1994年12月11日 神戸教会週報 岩井健作記)