1994.1.30、神戸教会
降誕節第6主日礼拝
(神戸教会牧師17年目、牧会36年、健作さん60歳)
この日の説教、ローマ 14:1-12「心の中で確信を」岩井健作
”神の前で誓いたいので教会で結婚式をあげたい”
と教会を訪れる人がいる。
多分、自分たちの大切な人生の出発を厳粛な気持ちで、という意味合いなのだろう。
でも、教会で行われる結婚式の式文を見ると、神の前で二人が誓う、という形式にはなっていない。
二人それぞれが《神に対して約束をする》形になっている。
”あなたは……約束しますか”
との牧師の問いに答えることになっている。
牧師は役割であるから、実質は《神への約束》である。
夫婦の問題というのは、相互に言い開きを始めると、行き着くところ離婚に至らざるを得ない。
もし離婚がありうるとすれば、神に対する言い開きの極みで、審きと赦しを受ける以外にないであろう。
それはまた、相手の人生の自由をほのかに漂わすものでもあるだろう。
神に対して約束するということは、神に希望の根拠を置くという意味で、現実を耐え忍び、それを試練として自己変革を喜びとしていく力である。
多くの離婚の反面で、幼い離婚、熟慮の離婚、悲惨な離婚を垣間見る昨今、「わたしたちは一人一人、神に対して自分の言い開きをすべきである」という言葉の重みを覚える。
”わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです。”(ローマ 14:12、新共同訳)
パウロは、「ローマの信徒への手紙」12章以下で、信仰者の生活の中で《神の義》がどう貫かれるかを語っている。
特に14章は、信徒相互間で確信や信仰理解の差によって、「強い」人が「弱い」人を裁くあり方に対して、反省を促している。
”裁いてはならない”(ローマ 14:3)
と繰り返し言う。
”わたしたちは皆、神の裁きの座に立つ”(ローマ 14:10)
と言う。
”キリストはその兄弟のために死んでくださった”(ローマ 14:15)
と言う。
我慢がならないという現実を踏まえてのことであろうか、次の祈りでこの段落を結んでいる。
”心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。”(ローマ 15:6)
パウロの次の言葉に注目したい。
”それは、各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。”(ローマ 14:5)
ここでは、「ローマの信徒への手紙」がずっと説いてきた、《信仰義認としての神の義》(ローマ 3:21-8:39)という主題が貫かれている。
神との関わりで罪の赦しを得ているという確信のない生き方をしてはならない。
確信とは、神からの赦し(義)の関わりを信じることである。
しかし、それが他人を裁くような、ドグマや信念となってはならない。
心の中に、という自己内省的豊かさをたたえた確信が必要なのである。
(1994年1月16日 神戸教会週報 岩井健作)




