1992.10.18、神戸教会 週報
聖霊降臨節第20主日・秋期伝道集会
同日発行 神戸教會々報 所収「崎津の教会」
秋期伝道集会案内
天草での想い(1992 週報)
この日の説教は、ルカ 19:1-10、「イエスと出会う」宮田光雄
宮田光雄氏:1928年生(1992年当時は64歳)。高知県出身。東大法学部卒。政治学・ヨーロッパ思想史専攻。1992年現在、東北大学名誉教授。「一粒学寮」主宰。著書多数。近著は『いま日本人であること』(岩波書店 1985)『キリスト教と笑い』(岩波新書 1992)など。
(サイト記)引用に際して、サイト用に「改行」は追加しました。語彙は原稿のままです。
どの出会いにおいても、三つのことがとくに重要です。
一つは、私たちが誰と出会うのかということ、第二に、私たちがどのようにして出会うのかということ、第三に、この出会いによって何が生ずるかということです。
ザアカイとイエスの出会いの物語には、この三つの事柄が典型的にあらわれています。
まず、ザアカイが出会ったのはイエス•キリストでした。
このザアカイにたいして、イエスは、何ものにもとらわれない自由な人として出会っています。
すなわち、何らのこだわりや偏見なしに、また何らかの道徳的な非難や教訓をたれることなしに、出会っています。
まさにそれゆえに、ザアカイは、彼の人格の内奥に向かって直接的に訴えかけられているのを自覚したのです。
すなわち、彼の身にまつわるすべての問題性にたいして、たとえば、そのいかがわしい人間関係、罪責、独善性、さらに心の中の葛藤=自己疎外にたいして訴えかけられているのを自覚したのです。
この出会いから生じたもの、それは、ザアカイがもはや自分自身へのとらわれから解放され、喜びと感謝をもって自由に生きる人間として主体性を回復するという出来事でした。
この物語では、すべての出来事が、まったく何らの猶予もゆるさない切迫性をもって起こっているようです。
一刻を争ってザアカイは「走って先回りし」、何のためらいもなくいちぢく桑の木に登っています。
さらにイエスは、彼に向かって「急いで」降りてきなさい、「今日」あなたの家で泊まるから、と呼びかけています。
するとザアカイは「急いで」降りてきて、その日も暮れないうちに、彼の全生活の転換が始まるのです。
まさにこの「今日」は、私たちの昨日と明日、過去と未来とを鋭く分かつ境界線を告げています。
私たちもまた、自分が身を隠している《傍観者》といういちぢくの桑の木の上から「急いで」降りて来なければならないのではないでしょうか。
この出会いが成立するために、私たちもまた「走って先回りする」ような、一刻の猶予ものこされていない《決断》を問われているのではないでしょうか。
(1992年10月18日 週報掲載 宮田光雄)
”さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は主税人のかしらで、金持であった。彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしはだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子が来たのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。”(ルカによる福音書 19:1-10、口語訳)
「ザアカイ物語」は並行箇所なし。ルカの独自資料。



