礼拝要旨「生きることから 生かされることへ」(1992 頌栄短大)

1992.4.22 頌栄短期大学チャペル、チャペル月報 1992.5 所収

(健作さん 58歳)

マタイ 26:69-75


 神戸の画家、小磯良平先生のお宅で集まりがあった時、私も居合わせておりました。

小磯良平画伯

 昔の思い出話をされていたお姉さんが、子供の頃、学校で図画の時間に画いた絵を持ち帰ると、

「良ちゃんがちょっと手を入れると見違えるほど生き生きするのです。それは影を上手につけるからです」

 と言われました。私はその話を聴きながら、今日朗読された聖書の箇所を思い浮かべました。

 イエスの一番弟子であるペトロは、イエスがユダヤの支配者によって逮捕された時、心配してイエスについて行ったにも関わらず、周囲の人に「あなたもイエスと一緒にいた人だ」と言われ、三回とも「知りません」と答えて、イエスを裏切りました。その時、ペトロは前に言われたイエスの言葉「あなたは鶏が鳴く前に三度私のことを知らないと言うであろう」を思い出し、外へ出て激しく泣きました。師を裏切る弟子という物語は、弟子の物語としては影の部分です。しかし、影を記すことで、イエスに許され、愛される弟子の姿が活きています。影の部分というものは大変大事なのです。

 私は幼稚園の園長をもう30年余り勤め、幾つかの幼稚園でたくさんの教師と共に働いてきました。かつて、新任の教師の保育にたまりかねたある母親が、忍耐の末、秋になってその教師の欠けの指摘を私にかなりきつく語りました。

 彼女はベテランの保育経験の持ち主でした。私は黙って聞きました。確かにその教師は力量不足が目立ちました。しかし、それを知っているのもその教師でした。その保育者はある祈祷会で

「私のような保育者も神に用いられていることは感謝だ」

 という証をしました。確かに未熟さや力量不足は、努力して越えなければなりません。それがプロの生き方でしょう。しかし、影の部分をも含めて用いられることを信じてこそ保育者というもののあり方があるのだ、ということをしみじみと教えられました。

 私は最近、作家三浦綾子の「矢嶋楫子伝」を読みました。矢嶋楫子は、すぐれた教育者で、東京のキリスト教主義の女子学院の初代校長でした。また、日本キリスト教婦人矯風会という、日本で最初の婦人解放運動団体の創設者であり、リーダーでした。ところが、三浦さんが書いたこの伝記の表題は『われ弱ければ − 矢嶋楫子伝』(小学館)となっています。三浦さんは、彼女の影の部分を軸にしてこの伝記を書いたのです。この「弱ければ」という部分は、人生の終わりに本人が語って初めて知れる程、濃い影でした。しかし、その弱さが用いられてこそ、この教育者の全体像があるのです。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントⅡ 12:9)という聖書の言葉を味わいましょう。影の部分は、他人には言えない心の深いところにあります。そこを各自が大切にし、自分でつっぱって生きることから、神に生かされることへの転換を大切にしつつ、この学校での学びを続けて欲しいと思います。