1991年9月15日、神戸教会週報、聖霊降臨節第18主日礼拝
(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん58歳)
聖書を読むにあたって、まず、基本になる語句の意味を知っておく必要はあります。
例えば、今日の箇所では、以下などです。
”安息日”:ユダヤ教の休みの日、起源には2説がある。創世記2章2節の天地創造説話の中で神が第7日目に休まれたことに由来する説。エジプトでの奴隷状態から神の憐みにより解放されたことを覚えて、労働を禁止し、神礼拝の日として守ったという申命記5章12〜15節の説。
”麦の穂を摘むこと”:他人の畑の麦穂摘みは、貧者救済の故に律法で許されていた。申命記23章25節に由来。
”パリサイ人”:ユダヤ律法を厳格に解釈したユダヤ教の一派。彼らは、麦穂摘みを安息日の労働禁止違反と解釈してイエスの弟子たちを攻撃した。
”ダビデとその供の者たち”:旧約聖書サムエル記上7章1〜7節にある故事。元来、安息日とは関係がない話だが、律法適用の例外を正当化するために引用された物語。(実際はアビアタルではなくその父アヒメレクの時代の出来事)
”人の子”:単に人間という意味と、イエスの称号として用いられる場合とがある。
次に、この物語が新約聖書には、少しずつ異なった形で3つあることを知っておく必要があります。
共観福音書であるマタイ 12:1-8、マルコ 2:23-28、ルカ 6:1-5です。
対観表で比べてみると、以下のような違いが浮かび上がります。
マタイは「穂摘み」の理由に「空腹であったので」を付け加え、また5〜7節、旧約のホセア2:6を引用し、神は祭祀よりも「憐れみ」を重んじることを強調しています。
マルコ2章27節の「安息日は人のため」という、律法そのものを止揚(アウフヘーベン)するラディカルな(根本的批判を持つ)言葉は、マタイやルカでは無くなっています。
このことは、マルコより後代の初代教会がさらに教団形成的であったことを示すものでありましょう。
さて、その次に、元来のマルコ以前の伝承には、ローマ帝国植民地であったパレスチナの飢えという社会的文脈があったと思われます。(ルイーゼ・ショットロフの指摘)
このことは、安息日問題(狭義の宗教的課題)より、飢えの問題(広義の宗教的課題)の優先を訴えていると思われます。
「人間が法に優先する」との叫びは、具体的現実からの叫びで、決して一般論ではありません。
神学(神から問われる)論はいつの時代でも、狭義ではなく広義の性格を持つべきでありましょう。
李仁夏牧師が代表世話人をしている「在日の戦後補償を求める会」の訴えなどは、後者の性格を持っています。
参考:『自分を愛するように:生活の座から、み言に聞く』李仁夏、日本基督教団出版局 1991年9月1日発行)
(1991年9月15日 神戸教会週報 岩井健作)
週報にて 1991年度「神戸教会 秋期伝道集会」案内:
1991年9月29日 講師:李仁夏(イ・インハ)(在日大韓基督教 川崎教会牧師)
説教「自分を愛するように」、講演「共に生きる これからの世界」
1991年9月22日 岩井健作牧師 広島出張。
福山延広教会(広島県福山市)及び西中国教区 広島東分区 応援

