1989年9月10日、聖霊降臨節第18主日
(礼拝後)愛餐会 参加80名
(当日の神戸教会週報に掲載)
(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん56歳)
イザヤ書 46:3-4、説教題「年老いるまで変わらず」岩井健作
”「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、
胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
わたしに聞け。
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。”
(イザヤ書 46:3-4、口語訳)
聖書の中で「老い」はどのように描かれているだろうか。
新約聖書のイエスは30歳余りで、使命に生きる死に終わっているので、あまり「老い」のことは出てこない。
時間や年代の経過の中での新しさ旧さ、若さや老齢ということよりも、神との関係が絶えず問い返されて新鮮にされるという意味での新しさが問題にされている。
(参考:マタイ 9:16、黙示録 21:1-4)
”だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎ切れは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。”(マタイによる福音書 9:16-17、口語訳)
新しい契約、すなわち新約聖書は、その文字が示しているように、垂直的に切り込んでくる、神の啓示としてのイエス・キリストを証しする書物だからそれで良いのであろう。
ザカリヤ、エリサベツ、シメオン、アンナという老人たち(ルカ 1:5以下)が、新しさを待ち望む人たちとして登場していることは象徴的である。
時の経過の中の新旧ではなく、時の経過を包む「救い」の新しさが「老い」そのものを相対化している。
私たちがこの使信を、絶えず聴き届けていくのが、信仰というものであろう。
旧約聖書では「老い」はかなり具体的に描写されている。
80歳まで生きる人はごく稀(まれ)だと言われているが、その一生は骨折りと悩みであって、飛び去る(詩篇 90:10)と記されている。
”われらのよわいは七十年にすぎません。
あるいは健やかであっても八十年でしょう。
しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、
その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。”
(詩篇 90:10、口語訳)
しかし、概して「高齢」は神の祝福であり(創世記 5:3-32)、老人の知恵、人生経験、判断力、特に「律法」が年長者から子に伝えられるという役割のゆえに、尊敬されるべきことが説かれている。
(参考:レビ記 19:32、出エジプト記 20:12、箴言 23:22)
”あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。”(レビ記 19:32、口語訳)
さて、今日は「高齢」あるいは「高齢者と共に在る」という、現代の身近な問題を想う課題に対して、イザヤ書 46章3節・4節の旧約の一節、感動的な言葉を心に刻みたい。
”「ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ、
生れ出た時から、わたしに負われ、
胎を出た時から、わたしに持ち運ばれた者よ、
わたしに聞け。
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、
白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。
わたしは造ったゆえ、必ず負い、
持ち運び、かつ救う。”
(イザヤ書 46:3-4、口語訳)
これは、イスラエル史では、後期捕囚時代の預言者(第二イザヤ)の言葉である。
一つの民族にも、若年・壮年・老年がある。
王国の形成、そしてバビロン捕囚は、この民族の年齢の分水嶺であった。
政治的破局の経験は、この民族に《残りの者》(3節)という謙虚な自負を含んだ、終末論的な生き方を自覚させた。
”ヤコブの家よ、イスラエルの家の残ったすべての者よ”(イザヤ書 46:3前半)
苦難は民族に「年老いる」とか「白髪」という表現でしか表せないものを感ぜしめた。
捕囚から解放されて故国に民族の理想を実現する帰還にあたって一層道遥(はる)けしとの思いを抱かせたであろう。
だが、その全体は、神に《持ち運ばれた者》であるとの信仰をも深めた。
「高齢」に関わる難問は山積している。
だが、「主、担い給う」の確かさの中で現実に関わることは忘れまい。
(1989年9月10日 説教要旨 岩井健作)




1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)