矛盾の彼方《ルカ 16:1-13》(1989 説教要旨)

1989年9月3日、聖霊降臨節第17主日
(当日の神戸教会週報に掲載)

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん56歳)

ルカによる福音書 16:1-13、説教題「矛盾の彼方」岩井健作

”ところが主人は、この不正な家令の利口なやり方をほめた”(ルカによる福音書 16:8前半、口語訳)


 人は己が生活からものを考える。

 山本周五郎は、長屋に生活する人々のやさしく哀しい人情を語った。井上ひさしは、東北弁の土壌に根付く人々の心を語っている。

 そこには、それぞれの作家の生活と心があるからだ。

 とすれば、聖書のルカ福音書にしか出てこない、やや不可解な今日の箇所「不正な家令」という譬え話は、一体どのような生活にある人々が伝承として語り伝えたのであろうか。

 そもそも、イエスが語ったのならば、原初の聴き手の生活とはどのような関わりがあったのであろうか。


 物語はこうである。

 ある金持ち。おそらく大土地所有者。

 その土地に代理としての支配人を置いて、土地管理を行わせていた。

 支配人の財産浪費が告げ口されたため、支配人は(主人の)負債者の借用証書を自分の権限で書き換えさせることにより、支配人の職を失ってから彼らに迎えいれられることを計った、という物語である。


 1〜7節までの原物語を素朴に読んで、一体この話は、大地主と豊かな商人の高度な経済行為のやりとりを通して、譬えの中心点・強調点はこの世の社会生活上の不屈な機転という利口さが「光の子ら」といわれる宗教的・精神的領域でのバイタリティーという比喩的教訓として語られている、ということなのであろうか?

 もしそうならば、この譬え話は、金持ち優位の世界の現状肯定であり、格差という現実にこそ規範を求める宗教人が語り伝えた教訓となってしまうであろう。

 そうではなく、支配人が金持ちと負債者のいずれに味方したかという実質こそが、この譬え話を語り継がしめたものではないだろうか。


 8節の「主人」については、「主=イエス」がこの話を肯定された、という意味で解釈されている。

 わたしもその方が良いと思う。

 油百樽(4000リットル)、麦百石(27トン)は、地主と小作の間の負債としては多いとして、間に商人が入るとしても、結果的にはこの話は、生活の苦しい側に味方する質を含んでいる。

 社会秩序への疑いを宿している。

 しかし、8節後半、9節、10〜12節、そして13節と、別々に付加された。

 それぞれの状況での解釈は、この譬え話にその時その時の強調点の変化をもたらしている。


 8節後半のごとく、危機的状況で神に対して「利口」であること、大胆に、決断的に、賢く行動することも、信仰者には必要である。


 9節のごとく、「友」(ここでは永遠の天使=神)を作ることも大切である。


 10〜12節のごとく、この世の富(いわば小事)に引き摺り回されない忠実さも大切である。


 13節のごとく、神と富との決断的選択は、信仰者にとっていつも試金石である。


 だが、富について《貧しい者と共なる視座を失わないように》とはこの世の矛盾の彼方から我々を招くイエスの《抜き難い低さ》である。

(1989年9月3日 説教要旨 岩井健作)


1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

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