自らを低くする者《ルカ 1:46-56》(1988 週報・説教要旨・降誕日)

1988年12月25日、降誕日
(説教要旨は当日週報に掲載)

(牧会30年、神戸教会牧師11年、健作さん55歳)

ルカ 1:46-56、説教題「自らを低くする者」岩井健作

 ”わたしの霊は救主なる神をたたえます。この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。”(ルカによる福音書 1:47-48a、口語訳)


 「ルカによる福音書」の著者は、社会層について言えば、比較的富裕層に所属していた知識人であり、彼の著作の読者もこの層を代表する者であった。

 ルカは福音書において、他の福音書には見られないほど多くの富者に関するイエスの譬(たとえ)話を収録している。

 例えば、「幸いと不幸」の中で(ルカ 6:24) 
 「金持ちの畑(愚かな金持ち)」「思い悩むな」(ルカ 12:13-34)
 「金持ちとラザロ」(ルカ 16:19-31)
 「大宴会」のたとえの中で(ルカ 14:18-19)

 ルカ福音書の同じ著者による続編「使徒行伝」では、弱い人々を助けねばならないこと、受けるよりは与える方が幸いであること(使徒行伝 20:35)等が強調されている。

 ”わたしは、あなたがたもこのように働いて、弱い者を助けなければならないこと、また『受けるよりは与える方が、さいわいである』と言われた主イエスの言葉を記憶しているべきことを、万事について教えが示したのである。”(使徒行伝 20:35、口語訳)


 ルカ文書(ルカ福音書、使徒行伝)の背景にある教団は「長老たち」「監督者たち」によって牧会されており(使徒行伝 20:28)、教会制度はかなり整っており、その救済観は、他の福音書のように「人間の罪のゆるしをイエスの死に結びつける」のではなく、悔い改めて洗礼を受けることへと結びつけている。

 初期カトリシズムの基本信条に近いもの(使徒信条の原型)がそこには見られる。

 「貧者」を理念として評価したり(ルカ福音書)、あるいは「貧者」を「施し」の対象として位置付けていく(使徒行伝)の中で、もっと急進的に、イエス自身に現れているような、富める者を批判する立場というものが、わずかではあるが、福音書の中に見られる。

 そのわずかな部分が、今日の箇所、ルカ1章45〜56節の「マリヤの讃歌」に反映されている。

 マリヤの讃歌は、内容的には、イエスの行動を先取りしたルカ独自のものである。

 この讃歌自身は、旧約のハンナの讃歌(サムエル記上 2:1-10)に依拠して、言葉や詩の構成がなされている。

 しかし、51〜53節は、イエスの行動の先取りと暗示を含んでいる。

 ”主はみ腕をもって力をふるい、
 心のおごり高ぶる者を追い散らし、
 権力ある者を王座から引きおろし、
 卑しい者を引き上げ、
 飢えている者を良いもので飽かせ、
 富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。”
 (ルカによる福音書 1:51-53、口語訳)

 この讃歌の中には「卑しい」(ギリシア語 ”タペイノス”)という語が二度使われている。

 48節は、身分の低い、謙虚な、という意味であり、52節は、身分の低い、権力者に対して卑屈な者、という意味のニュアンスを持つ。

 前者は内面、後者は権力との関係である。

 謙虚さが、単に人間関係のみに留まらないで、神との関わりで徹底する時、卑屈さからの解放であることに注目したい。

 イエスのもたらされた解放は、心の有り方と同時に、権力への感覚を含んだものであった。

 ”タペイノス”は「自らを低くする者」の意味であるが、これは、権力との関わりで、上昇指向ではなく、”低さ”を含んでいる。

 これは今日の時代を生きる感覚として忘れてはならない。

 イエスご自身がそうであった故に。

(1988年12月25日 説教要旨 岩井健作)


1988年 説教・週報・等々
(神戸教会10〜11年目)

error: Content is protected !!