みこころを探る《ルカ 2:19》(1986 クリスマスメッセージ・燭火讃美礼拝)

1986年12月24日(水)午後7時半〜8時半、
神戸教会クリスマス讃美礼拝(約450名)
(説教要旨は1986年1月4日週報に掲載)

(牧会28年、神戸教会牧師9年、健作さん53歳)

ルカによる福音書 2:19、メッセージ「みこころを探る」岩井健作
指揮:阿部恩兄、合唱:神戸教会聖歌隊、
奏楽:瀬尾千絵姉、アンサンブル:シュピール•ドーゼ

 ”しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。”(ルカによる福音書 2:19、口語訳)


 ルカ福音書のイエス誕生物語によると、羊飼いたちが天使の告げ知らせでベツレヘムの飼葉おけのイエスのところに出かけたとあります。

 その記事の中には、羊飼いたちが「互いに語り合った」(ルカ 2:15)とか、「自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた」(2:16)とか、「羊飼たちは……神をあがめ、またさんびしながら帰って行った」(2:20)とあります。

 そこから想像される様子は、仲間でいろいろと話し合っている姿です。

 私たちも、何か大きな出来事にぶつかったりすると、その驚きや自分の気持ちを人に話さないではおられない衝動にかられます。

 また一人でじっと考えているよりは、おしゃべりをしていた方が楽しいことも事実です。

 羊飼いたちにもきっとそんな雰囲気があったと思います。

 ところが、ルカ2章19節には、そのような雰囲気とは違って、「しかし、マリヤは……思いめぐらしていた」とあります。

 「救い主だ、救い主だ」と人々が言っている中で、いったいそれはどういうことなのか、とじっくり考え、思いをめぐらせているのがマリヤの姿です。

 羊飼いたちとマリヤの違いは、一方はもう答えを見つけてしまったのに、他方は、思いをめぐらせて、その答えを尋ねて問う過程にあるという点です。

 ひとり黙って考えている姿を黙考とか黙想と言いますが、そのような生活が現代の精神的あり方には少なくなりました。

 総合雑誌「世界」(岩波書店)1986年12月号で、暉峻淑子(てるおか・いつこ、経済学者、埼玉大学教授)さんという方が「ほんとうの豊かさとは」という論考の中で、日本の物の豊かさとは裏腹に、体験や人の繋がりにおいては貧しいことを説いています。

 その事は、精神的領域でも同じです。

 出来合いの考えや結論に自分を合わせることは出来ても、自分で考え、思想を構築していくことには貧しいのが(私自身の反省も含めて)現状です。

 信仰の世界でも同じであると思います。

 神の告げ示される事を、イエスの誕生から十字架に至る道程として捉えて、じっと思いめぐらしていくことに信仰の豊かさがあるのではないでしょうか。

 星野富弘さんの新しい本『〈花の詩画集〉鈴の鳴る道』(偕成社 1986年12月)のあとがきに、ある主婦の手紙が載せられています。

 「子供というものは、必ずしも赤ん坊の姿を持って生まれてくるとは限りません。あなた方夫婦が心を一つにして、力を合わせて作りあげたものなら、それが絵であろうと文章であろうと、あなた方夫婦のりっぱな子供です。」

 この発想の豊かさには心を打たれます。

 そこには、神のみこころを適当なところで解り切ってしまうのではなく、みこころを探りつつ生きる星野さんへの大きな励ましがあります。

 私たちも神のみこころを探りつつ、マリヤの黙想に学びたいと存じます。

(1986年12月24日 神戸教会 岩井健作)


1986年 説教・週報・等々
(神戸教会8〜9年目)

error: Content is protected !!