1984年11月18日、降誕前第6主日
(説教要旨は翌週の週報に掲載)
(牧会26年、神戸教会牧師7年、健作さん51歳)
コリント人への第二の手紙 3:12-18、説教題「しかし、主に向く時に」岩井健作
”しかし主に向く時にはそのおおいは取り除かれる。”(Ⅱコリント 3:16、口語訳)
先週は石井伝道所の集会を神戸YMCAの難波紘一氏の特別講演会に合流しましたので、一緒に聞きに参りました。
【世界YMCA・YWCA合同祈祷週 特別講演会】
日時:1984年11月16日(金)午後6時〜7時半
会場:神戸YMCAチャペル
講演:「命ある限り」
講師:難波紘一(岡山東工業高校教諭、筋ジストロフィー患者)
難波紘一さんは6年前から進行性筋萎縮症にかかり、もう首から下が不自由になってしまった中で、ご夫人•難波幸矢さんの介助で、県立岡山東工業高校の社会科教師を続け、岡山博愛会教会々員として、証しの伝道活動を続けている方です。
著書に『生まれてきてよかった ー 進行性筋萎縮症患者の生命讃歌』(難波夫妻自費出版 1984)があります。
お二人に出会って感じたことは、どちらかが相手のために生きるという生き方ではなくて、お二人が共々に一緒に生かされている、ということです。
相手のためにこうしなければならないという生き方を、聖書の考え方では律法主義的生き方といい、共に生かされている生き方を福音的生き方と言っていますが、そういう意味でお二人が生かされていると感じました。
もちろんそれにはお二人の長い道程があり、それもまた証しとなっています。
聖書では(特にパウロは)そのような生き方への変革を起こさせる力を「キリストの霊の働き」と呼んでいます。
続けて学んでいる第二コリントの3章17節では「主の霊のあるところには自由がある」と言っています。
”しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。”(コリント人への第二の手紙 3:16-17、口語訳)
(例えば、難波幸矢さんは紘一さんと一緒に、カロリーを制限して1日1000キロカロリーの生食でもう2年余り活動していますが、その自由はすごいものだと感じました。)
パウロはこのような「自由」を体験した人です。
ユダヤ教の「律法」とその延長線上にある考え方では、どうしてもこの自由に至らないことを、彼は「モーセのおおい」(Ⅱコリント 3:15)と言っています。
モーセは、創世記34章にあるように、律法をもたらした人です。
”今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。”(コリント人への第二の手紙 3:15、口語訳)
とは心して聞くべき言葉です。
私たちも今日、数々のキリスト者としての課題を聞くと、それを自由と喜びで担うのではなくて、”おおい”のような不自由さで律法主義的に関わってしまうことがあります。
諸課題を自分の力だけで取り組もうとしたり、解決しなければと思うことの中に、律法主義が芽生えます。
しかし、共に生かされることをその課題の中に信じる時、すなわち「主に向く時に」そこからの緩(ゆる)めを与えられます。
私たちが諸課題を前にして”おおい”に覆われるような塞がれた心を感じるのは、体験的順序、歴史的順序であるかもしれません。
しかし、神の出来事の順序、信仰的順序では「おおいが取り除かれる」と言われます。
”しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。”(コリント人への第二の手紙 3:16-18、口語訳)
この歴史的順序と本質的順序とのせめぎ合いを生きるのが信仰者でありましょう。
主の霊の働きを切に祈り求めて歩みたいと存じます。
(1984年11月18日 説教要旨 岩井健作)




1984年 説教・週報・等々
(神戸教会6〜7年目)
「コリント人への第二の手紙」講解説教
(1984-1985 全26回)