1983年11月13日、降誕前第6主日、謝恩日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
《11月10日、K.S姉葬儀司式》
東京出張:11月10日〜11日 教団常議員会
(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)
コロサイ 2:1-5、説教題「秘められた苦闘」岩井健作
”どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。”(コロサイ人への手紙 2:1b、口語訳)
ものごとの責任を負っていると、時々は、隠された苦労をわかってもらいたい、と言いたくなることがある。
そんな経験を持たれた人は多いであろう。
この手紙の著者もそう言っている。
「わかってもらいたい」という発言には2つの面がある。
第一は、あえてそう言わざるを得ないほどわかってくれないという現実が浮き彫りにされている。
コロサイとラオデキヤの教会の心鈍き姿がある。
第二に、わかってもらいたいという字義通りの期待がある。
そこには教会に対する信頼がある。
著者の苦闘は何のためかというと、2章2節以下に次の3つが挙げられている。
① 彼らが心を励まされること
② 愛によって結び合わされること
③ 豊かな理解力を十分に与えられ、神の奥義なるキリストを知ること
”わたしが、あなたがたとラオデキヤにいる人たちのため、また、直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか、わかってもらいたい。それは彼らが、心を励まされ、愛によって結び合わされ、豊かな理解力が十分に与えられ、神の奥義なるキリストをしるに至るためである。”(コロサイ人への手紙 2:1-2、口語訳)
知識(グノーシス)だけが先行して寒々としかかっている教会に、心の励ましが与えられるような交わりの力、すなわち愛の回復を願い、それを通してキリストが体得されることを願っての苦闘であった。
著者は獄中に囚われの身で、直接行って励ましたり、戒めたり、叱ったりすることはできない。打つ手も打てない状況である。
とすると、苦闘の内容は祈ること、著者自身が神に迫ることであったと思う。
「苦闘」とは本来、神の行為であって、人の行為ではない。
「苦闘」の派生語は、ルカ22章44節では「イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた」と祈りについて用いられ、同じ箇所で弟子たちはイエスの祈りをよそに眠ってしまっていたと記されている。
眠っている弟子と祈るイエスとの対比に「苦闘」のさまが出ている。
それは《秘められた苦闘》というにふさわしい。
”イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った。いつもの場所に着いてから、彼らに言われた、「誘惑に陥らないように祈りなさい」。そしてご自分は、石を投げてとどくほど離れたところへ退き、ひざまずいて、祈って言われた、「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」。そのとき、御使が天からあらわれてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。祈を終えて立ち上がり、弟子たちのところへ行かれると、彼らが悲しみのはて寝入っているのをごらんになって言われた、「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないように、起きて祈っていなさい」。”(ルカによる福音書 22:39-46、口語訳)
イエスの苦しみは、それが他のための苦しみであるという故に(自分のことだけを考えている者の心には)本当には分からないという面がある。
と同時に、人は何がしか他のために苦しんでいる故に、そこをチャンネルとして繋がっているという面がある。
眠っていた弟子たちにさえ、その繋がりは許されている。
そういう意味で私たちは、困難な祈らざるを得ないような課題を大切にしたい。
祈る以外持ち堪えられないことに神を仰いでいきたい。
さらに「直接にはまだ会ったことのない人々のために、どんなに苦闘しているか」(コロサイ 2:1)との言葉に注目したい。
個人にしても教会にしても、知っている人々だけではなくて、射程の広い問題の中で、直接には会ったことのない人々のことが切実になる感覚を養い、秘められた苦闘を負う者でありたい。
神の苦闘も秘められているのだから。
(1983年11月13日 説教要旨 岩井健作)



