1983年10月9日、聖霊降臨節第21主日、
神学校日
説教要旨は翌週の週報に掲載
(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)
コロサイ人への手紙 1:21-23、説教題「しかし今では」岩井健作
”しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。”(コロサイ人への手紙 1:22、口語訳)
秋の連休に、巷は人の行き交いしげきものがあります。
祝い事、弔事、行楽そして仕事が待ったなしのスケジュールの人々を満載して、空海陸の交通機関は疾走します。
そんな中で、私たちは今朝の礼拝を守っています。
何のために。
今朝の聖書の「みことば」を聞くためです。
それだからこそ、ただそのことのためへの集中を願い、祈らざるを得ません。
コロサイ人への手紙1章22節。
”しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。”(コロサイ人への手紙 1:22、口語訳)
「あなたがたを神と和解させ」と告げられています。
この喜ばしき告げ知らせ、「福音」に身をおく時、私たちには「しかし今では」という《時への目覚め》が与えられます。
人生には、自分ではどうしても解決できない自分の罪の現実というものがあります。
例えば、身近な者との人間関係で折り合いがうまくいかないという事があります。
心のわだかまり、衝突、葛藤、憎しみ、こだわり。
理性的にも、真理的にも、信仰的にさえ「分かっていながら」自分をコントロールすることができない。
それに取り組む精神的エネルギーさえ萎えてしまうことがあります。
パウロはそんな現実を「わたしの内に宿っている罪」の蠢きとして捉え、自らを救い難い「みじめな人間」(ローマ 6:15)として言い表しています。
相談や仲裁が功を奏するならそれは「仕事」や「働き」ですが、そんな段階をはるかに超えた状態の場合、私たちにできることは、ただ、深い淵と闇に共にたたずむこと、そして、祈ることだけです。
といってもそんな呻吟するだけの用事、徒労ともいうべき用事にとても耐えることは出来ません。
しかし、そのような闇に深くたたずんで下さった方は誰かを知る時、事態に光が差し込んできます。
「肉のからだにより、その死をとおして」(コロサイ 1:22)、交わりの真実を示された「神」の変わり果てた姿ゆえに事態が動きます。
神が苦しまれる故に、我々の苦しみに意味が与えられます。
その底に「神との和解」つまり交わりの関係が与えられるからです。
自己受容、他者への関わりと時間の将来が見え(23節)、自分の過去を罪として認識します(21節)。
その中心に「しかし今では」(22節)という《信仰の告白の時》が明確にされます。
このような、過去・現在・将来を明確にさせながら生きる者がキリスト者です。
「信仰に踏み留まる」(23節)は、神の和解の真実に定住すること、福音の望みに生きることです。
”ただし、あなたがたは、ゆるぐことがなく、しっかりと信仰にふみとどまり、すでに聞いている福音の望みから移り行くことのないようにすべきである。この福音は、天の下にあるすべての造られたものに対して宣べ伝えられたものであって、それにこのパウロが奉仕しているのである。”(コロサイ人への手紙 1:23、口語訳)
『神はわが病いを負い : 病める友へ』(深田未来生等、教団出版局 1983)を読み、信仰にある病人が、信仰の「今」を持った人たちであることに、教えられました。
(1983年10月9日 説教要旨 岩井健作)



