1983年10月2日、聖霊降臨節第20主日、
世界聖餐日
説教要旨は翌週の週報に掲載
(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)
コロサイ人への手紙 1:15-20、説教題「創造と和解」岩井健作
”彼はその体(すなわち教会)の頭である”(コロサイ人への手紙 1:18)
”そして自らは、そのからだなる教会のかしらである”(コロサイ人への手紙 1:18、口語訳)
詩の持つ素朴な美しさは人の心を捉えて離さない。
原始キリスト教団の中でも「讃歌の典型、雛形、傑作」(新約学者ケーゼマン)と評された「キリスト讃歌」(コロサイ 1:15-20)の持つ不思議な力をよく知っていたのは、コロサイの手紙の著者であろう。
とすれば、この讃歌を自分の手紙に引用したのは何のためであったろうか。
自分の主張を強めて美しくするための単なる援用であったとは思われない。
「讃歌そのものと、筆者(手紙の著者)の注釈との間には、見過ごし得ぬ神学上の相違がある」という。
それはあたかも果樹の接木を思わせる。
伝統や伝承の全面的否定や批判ではなく、伝統に敬服しつつ超えていく受容と継承の仕方である。
手紙の著者は「讃歌」に共鳴しつつ、またコロサイの教会の信仰の弱点を、それを用いて諫めていく。
「讃歌」は二つの部分に分かれる。
第一部は1章15節〜18節a。
”御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生まれたかたである。万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。”(コロサイ人への手紙 1:15-18a、口語訳)
キリストを創造の仲立ちとして語る。
キリストを媒介にしてこそ初めて認識される、万物についての、その被造性を言い表す信仰が告白されている。
「位、主権、支配、権威」(16節)といった天使的存在が力を持って人々の生活を束縛していた当時では、この信仰告白は自由への謳歌にも似ていたと思われる。
そしてまたそこに危険も潜んでいたに違いない。
「讃歌」の美しさが、キリストの働きをいつの間にか宇宙論的に対象化・知識化(グノーシス化)してしまっていた。
これに対して手紙の著者は18節aに「教会の」という一語を元々の詩に挿入することで、「創造」に関わる信仰はあなたがたの間(教会)では生きているのか、を問い、更に創造の信仰が現実に働く場としての「教会」を覚えさせる。
第二の部分は1章18節b〜20節。
”それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた穂を宿らせ、そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。”(コロサイ人への手紙 1:18b-20、口語訳)
ここではキリストの和解の働きについて讃歌で歌われているが、「十字架の血によって」(20節)を挿入することで、和解についての観念的固定化を破り、世界観や理念に変容してしまう危険を持つ信仰の内実を問い返している。
私たちが福音を信じ、「創造」や「和解」の信仰を告白することは、世界観的表明としての自分の理論や思想を構成することではない。
私自身が「造られた者として」また「あがなわれ、神と和解せられた者として」自分を把握することであり、その中にこの世での可能性を理解することである。
そのことが私たちが教会につながっていることの意味である。
果たして「教会」の重さをそのように捉えているのか。
そこを捉え返したい。
(1983年10月2日 説教要旨 岩井健作)