神戸教會々報 No.97 所収、1981.10.18
(神戸教会牧師、健作さん48歳)
私たちの教会では「神戸教会90年小史」に続く「史料集」の編纂が続けられており、その発刊が待たれている。
太平洋戦争下戦火で高橋健二牧師の「殉職」と共にほとんどの歴史資料を失った教会の史料の再収集は仲々困難であり、それだけに「史料集」にしろ「教会史」編纂にしろ、未だ課題として途上にある。
1981年度の教会宣教方針(107回教会定期総会議案報告書)には、他の諸課題に加えて今年新たにあげられたことに、教会の歴史への関心を広く教会内に呼び起し、研究会を開く計画があった。協力者を与えられて実施継続されていることは感謝である。
またこれとの関連で夏期特別集会は伝道部の企画で「教会の歴史と私たちの信仰」のテーマのもと行われたことも意義深い。
私たちの教会が史料を失って持っていないということは、逆に史料と史料をつなぐ想像力の必要を促される。
歴史は、歴史を語り書く者の史料に対する解釈を通して再現されるものであってみれば、想像力を原基とする歴史解釈や史観に拠って立つところが大きい。
「教会の歴史」編纂も史料の制約を受けながらも、書き手の想像力による創造に待つ部分があることが面白さにもなるであろう。
しかしだからと言って「過去」という衣をまとわせた思想書となっても困る。
また反対に過去の出来事を紀伝体で整理しただけでも物足りない。
想像力を駆使しつつも過去を過去として語らしめるものでなければならない。
そのために歴史研究者は骨身をけずって史料の探索と収集をする。
そして教会も例外ではない。史料をどのように収集し整理するかは教会内外の専門家の助言にゆだねるとしても、教会が総手で、私たちの教会の歴史に関わる史料を、たとえ週報一枚写真一葉にしろ古いものを探っていきたいと思う。
さて、今日私たちが、私たちの教会の歴史を私達の信仰との関連で掘り起すことはどういう意味を持っているのであろうか。
会報前号で私は私なりに一つの問を立ててみたことを想い起す。
「近代社会の中で個の確立を促す契機となったところに近代におけるキリスト教信仰の積極的意義を認めるとするならば、そこでもまた個の尊重と確立は種が土の中に落ちたことではあってもそれが死んで実を結ぶこと(ヨハネ12:24)とはまた別なことと捉えねばならない…」。
大変漠とした感覚ではあるが、「福音」による個の自覚、自立はまた個をとりまく人間の共同性との相関関係であってみれば、その関係の変化、濃淡、相克をたどることが歴史をたどることにならないであろうか。
超越を根拠に持つ「福音」が人間社会で「福音(よきおとずれ)」として受容・形成されていくことの逆説の様態を捉えることでもある。
そこには、教会と社会、キリスト教と文化、福音と時代との摩擦・軋轢・衝突・包摂・混沌・融和という衣につつまれて何か新しいものが生み出されているかも知れない。
たとえ小さな現象であってもそこを見逃さずに捉えていくのが教会の歴史ではないだろうか。
それを私たち現代の信仰への問いとしまた礎とするところに歴史と信仰の関わりがある。
例えば、教会創立前史の市川栄之助の逮捕・獄死をどう受け取るかを考えてみても、直々の史料は無きに等しい。
近年史家は殉教説には冷静である。とすると私たちは、この一人の受難者の存在が浮き彫りにする状況をして語らしめねばならない。
そのことが今日の社会での私たちの信仰のありようを問うている。
”隠されているもので、あらわにならないものはない。”(ルカ 8:17)


いっぴきのとらごろう(1981 神戸教會々報07)