1981.10.11、聖霊降臨節第19主日、
説教要旨は翌週の神戸教会週報、
岩井牧師:次週17日(土)・18日(日)
教区議長として但馬地区信徒大会出席
(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん48歳)
この日の説教、ヨハネによる福音書 14:25-31、「想起」岩井健作
「結婚」などという意味がおよそ分かるとは思えない5歳の娘さんが、日曜夜のNHK番組の人気コーナー「減点パパ」(三波伸介さんが子どもと話をしながら父親の似顔絵を描いていく)で、父親と一緒にいたいという素朴な願いを、「お父さんと結婚したい」と作文に書いて、父親の顔を涙でくしゃくしゃにさせていた。
その光景を見ていて、言葉は概念ではなくて、語り手の心だということ、自分の言葉を持つということの凄さに感動した。
イエスもそういう言葉を語ったのだろう。
「群衆は、その教えにひどく驚いた。それは律法学者のようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである」(マタイ 7:28-29)とある。
”イエスがこれらの言を語り終えられると、群衆はその教えにひどく驚いた。それは律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように、教えられたからである。”(マタイによる福音書 7:28-29、口語訳)
しかし、そのイエスの言葉も、イエスの死を経て、時を経ると過去のものとなってしまう。
「すでに語ったこと」(ヨハネ 14:25)はそういう意味だろう。
”これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。”(ヨハネによる福音書 14:25、口語訳)
過去の言葉を、自分の現在の状況で、再解釈し、自分のものとして取り戻すことがなければ、それは過去の思い出に過ぎなくなる。
先程の娘さんにしても、高校生ともなれば、幼き日の自分の言葉をそのまま思い出せば苦笑するだろう。
しかし言葉を現在化させて、父親の愛というものを想起するならば、あの言葉は活きてくる。
森有正氏は、氏独特の用語法ではあるが、人はあることを体験したままではそれはやがて過去のことになってしまう。本当の経験というものは、体験したことが、絶えず新しい出来事として改めて受け入れられ、更に将来に向かって開かれたものだ、と体験と経験とを区別している。
イエスの言葉も、体験されただけでは過去のものとなるが、それが現在化される時、新たなメッセージとなる。
26節で「助け主」すなわち「聖霊」の働きについて、「わたしが話しておいたことを思い起こさせる」ものと告げているのは意味深い。
”しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。”(ヨハネによる福音書 14:26、口語訳)
スイスの神学者ルドルフ•ボーレンは「聖霊とは、言葉を与えるものだ」と言っている。
聖霊はイエスの言葉を過去のものとして理解させるものではなく、その言葉を現在の力として働かしめるものだということである。
26節を原文で読むと「聖霊が教え、想起(現在化、経験化)させるのだ」という意味が強く出ている。
イエスの出来事を大胆に再解釈(現在化)し、強烈な自分の言葉を持つ時、人は27節の如き「平安」(心を騒がせない生き方)を持つであろう。
”わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世の与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。”(ヨハネによる福音書 14:27、口語訳)
「助け主」はそのことを起こさせる。
私たちは、それを信じて、自分の体験だけでは乗り越えられない閉塞状況を突破していきたい。
(1981年10月11日・18日 週報 岩井健作)