1981.8.23、聖霊降臨節第12主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載、
翌8月24日〜31日(岩井牧師の夏期休暇)
(神戸教会牧師3-4年目、牧会23年、健作さん48歳)
この日の説教、ヨハネによる福音書 11:17-44、「ラザロよ、出てきなさい」岩井健作
”大声で「ラザロよ、出てきなさい」と呼ばわれた。”(選句ヨハネ 11:43)
ヨハネはこの長い福音書の前半の部分(ヨハネ福音書 2章〜12章)で「父から遣わされたイエスが啓示者として行った地上でのわざ」を記してきた。
そして、11章は、最大の奇跡物語「ラザロの甦り」を素材に用いる。
これは史実の報告ではない。
ヨハネ固有のメッセージを包んだ説話である。
その中心は「わたしはよみがえりであり、命である」(ヨハネ 11:25)というヨハネが繰り返し用いる象徴語句に示されている。
「わたしは……である」(25節)の一句は、それだけで読んでも、その強調点がよくわからないが、マルタとイエスの対話の中におくと、マルタが「終わりの日の甦り」という純未来的事柄(後期ユダヤ教黙示文学から継承した信仰定式)として「甦り」を考えていたのに対し、それを批判して、「命」とは未来に淡い願望を繋いで生きることではなく、今を、この現在を、イエス(わたし)に確かな関わりをもって生きることだと宣言しているところに特徴がある。
”イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。マルタは言った、「終わりの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者はいつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。”(ヨハネによる福音書 11:23-26、口語訳)
通俗的な未来的終末の願望が宗教思想の中心をなすならば(例えば、この世では苦しくても、天国や極楽には救いがあるという具合に)、その宗教は現在の世の中の矛盾と戦っていく力を失うだろう。
変革力を失った宗教は「味を失った塩」となって、現状補完か反動の役割を演じる。
そういう生き方は、未来を願望し現在を見ないだけでなく、過去の暗さにも目を覆う。
イエスはこういう在り方に「憤(いきどお)り」給うた、とヨハネは記す。
口語訳のヨハネ11章33節・38節の「激しく感動して」は、人の死を悲しむ人間の心への同情を表すという解釈と、他方、罪の値としての死を自らのこととして悲しめない人間の偽善への「イエスの涙と憤り」とする解釈の二つに分かれる。
私は後者の解釈をとる。
(サイト記)健作さんは本説教の準備で「憤り」と訳出した説教集『石島三郎著作集3巻』 (教文館 1979、p.111)を手元に置いている。
”イエスは、彼女が泣き、また、彼女と一緒にきたユダヤ人たちも泣いているのをごらんになり、激しく感動し、また心を騒がせ、そして言われた。”(ヨハネによる福音書 11:33、口語訳 1955)
”イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。”(同上 新共同訳 1987)
”イエスはまた激しく感動して、墓にはいられた。それは洞穴であって、そこに石がはめてあった。”(ヨハネによる福音書 11:33、口語訳 1955)
”イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。”(同上 新共同訳 1987)
そして、過去への凝視を「石を取りのけなさい」(ヨハネ 11:39)と言葉で表している。
”イエスは言われた、「石を取りのけなさい」。死んだラザロの姉妹マルタが言った、「主よ、もう臭くなっております。四日もたっていますから」。イエスは彼女に言われた、「もし信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか」。(ヨハネによる福音書 11:39-40、口語訳)
さて、私たちは、ここで「あなたは本当に現実を生きているか?」と問われている。
過去をもうどうにもならないものとして目を背けていないか。
教団の戦争責任や教会の歴史の影の部分も然りである。
また健康にしろ業績にしろ、個人の過去にもそういうものがある。
しかし、イエスは、「ラザロよ、出でよ」と大声で叫ばれる。
”ラザロ”の語源は”神が助けた”の意である。
手足を布で巻かれた不自由なラザロの如くであっても、なお、「生きよ」と招かれる。
一生懸命這いずり出てくるラザロに、イエスにつながって生きる者の命を見る。
私たちも、「もう今からでは……」と思うような現実から、一足を踏み出したい。
(1981年8月23日・30日 週報 岩井健作)



