ベツレヘムの飼葉おけ《ルカ 2:1-7》(1979 クリスマス燭火讃美礼拝・礼拝説教要旨・週報)

1979.12.24(月)午後7:30、クリスマス燭火讃美礼拝、神戸教会
説教要旨と集会報告は12月30日の週報に掲載
(23日のクリスマス聖日礼拝週報と30日の週報の集会報告を添付)

(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)

(サイト記)クリスマスの諸集会報告と讃美礼拝報告には(岩井記)のサインがないのでテキストデータ化は省略しますが、週報添付でご覧いただけます。23日の礼拝参加者214名、教会学校270名、クリスマス燭火礼拝参加者370名、愛餐会140名と週報に記録。


ルカによる福音書 2:1-7、説教題「ベツレヘムの飼葉おけ」


 皆さん、今晩は。クリスマスおめでとうございます。

 先ほど朗読された聖書のクリスマス物語は、年毎に全世界で読まれています。

 皆さんはここからどんなメッセージを受け取っておられるでしょうか。


 私は、先ごろ、高木敏子さんの『ガラスのうさぎ』(高木敏子著、画・武部本一郎、金の星社 1977)という本を読みました。

 1945年、昭和20年、太平洋戦争最後の年、12歳の少女だった著者は、東京の大空襲で母と妹二人を失い、続いて疎開先で戦闘機の機銃掃射で、見ている前で父を殺されます。

 目の眩(くら)むような戦争の残酷さを今の子供たちに知らせている本ですが、同時に、一人の少女が生きているように励ましてくれる名もない人たちの声が響いています。

 復員してきた兄が独立するまで親戚の家に預けられますが、そこの人たちの心の固さに耐えかね、そっと一人で東京へ向かう夜、一人旅を心配して泊めてくれた農家のおばさんは「どんなことがあっても、くじけずに生きるのよ」と、ほのぼのとした暖かさと安らぎが、少女の胸いっぱいに広がっていく言葉をかけてくれます。

 一方では、身を守ることに精一杯の人たち、ところが他方に生きる苦しみを通じて心を開いてくれる人が描かれています。


 ベツレヘムの光景も同じではないでしょうか。

 一方で、エルサレムのヘロデ王に集約されていく自分のことで精一杯の人たち、しかし、他方で一人の幼な子が生まれています。

 その子はやがて十字架の死に極まる苦しみを負われますが、その人と出会い、心にしみる交わりを持った人は、生きる力、安らぎを得ています。

 確かに、ベツレヘムの出来事は、星あかりに透かして、心で見ないと分からないような小さな出来事かもしれません。

 あの都エルサレムの生き馬の目を抜くような生活ばかりに目や心が向いている人には見えないかもしれません。

 しかし、高木さんのお話の中に出てくる心温かい小さな人の存在のように、一方の残酷さにもかかわらず、世に存在する光の確かさを暗示しているのが、ベツレヘムの飼葉おけの幼な子です。


 イエスは御自分のことを「人の子が来たのも仕えられるためではなく、仕えるためであり、多くの人のあがないとして、自分のいのちを与えるためである」(マルコ 10:45)と言われました。


”人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。”(マルコによる福音書 10:45、口語訳)


 このイエスの生き方が徴(しるし)として示されているベツレヘムを、いつも心に描いて生きる者となるように祈りましょう。


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