1979.9.2、神戸教会
説教要旨は9月9日の週報に掲載
(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん46歳)
ヨハネによる福音書 6:66-71、説教題「主よ、我らは誰に行かん」
「我らは……」「私たちは……」という自己表明は、それ以外の者たちへの強力な主張となる。
「私たちは……」といって、イエスへの信従を表明した弟子たちの意志的なあり方の強さが、今日のテキストにうかがわれる(ヨハネ66:68-69)。
”シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。”(ヨハネによる福音書 66:68-69、口語訳 1955)
”シモン・ペテロ答ふ『主よ、われら誰(たれ)にゆかん、永遠(とこしへ)の生命(いのち)の言(ことば)は汝にあり。又われらは信じかつ知る、汝は神の聖者なり』”(ヨハネ傳福音書 66:68-69、文語訳 1887,1917)
それが、多くの弟子たちの態度と対照的である。
ユダヤ社会での圧迫を恐れて、イエスと袂(たもと)を分かつ中での信仰告白の健気さは見上げたものである。
信仰告白が行動を伴って、イエスによって示される価値観とこの世の価値観とのぶつかりの狭間でなされているだけに、「わたしたちは……」という自覚は強いものであったろう。
ところが、意外なことに、このペテロの告白に対して、イエスのコメントが”何もない”。
(関連テキストであるマルコ 8:30、マタイ 16:17と比べるとよく分かる)
”何もない”どころか、逆に「われわれ……」12弟子の中の一人は「悪魔である」(70節)と宣言されている。
イエスに従うことで確かだとみられた弟子集団から脱落者が出るだろうという警告はなんとも衝撃的であるし、一体何を意味しているのだろうか。
神の選びのうちにある弟子ですら「われわれ」という帰属意識に安住できるものではなく、もう一度、自分自身の根本が問い返されているということではないだろうか。
「われわれ」といった中に、光と闇、信と不信の両面が知らない間に潜んでいることが知らされる。
わたしは、個とか独りの主体として決断しているようであって、いつの間にか、集団や党派性の中に(意識していなくても)埋もれてしまう。
そこに安住してしまうことを改めて問われることは、よほど柔軟な精神の持ち主であっても、受け止めることが難しい。
一体何が問題になっているのか分からないままにすれ違ってしまうのが、まず普通のことではないだろうか。
そんな弟子集団にイエスは語っている。
ペテロがどれほど受け止めたか分からない。
ただ、それにもかかわらず、信仰告白の冒頭で「主よ、我らは誰に行かん」と言って厳しく問うイエスから逃げたり離れたりしない。
”シモン・ペテロ答ふ『主よ、われら誰にゆかん、永遠の生命の言は汝にあり。又われらは信じかつ知る、汝は神の聖者なり』”(ヨハネ傳福音書 66:68-69、文語訳 1887, 1917)
ここに救いがある。
我々が救いにあずかるとしたら、こういう場ではないだろうか。
イエスがもたらす関係そのものへの信頼だけは失うまいと思う。
《祈り》
あなたの許を離れないという、意志と勇気と熱心さとを絶えず与えて、私たちを養い、行手を導いて下さい。
(1979年9月2日 礼拝説教要旨 岩井健作)




