1979.5.13、(母の日)礼拝、神戸教会
説教要旨は5月20日の週報に掲載
(牧会21年、神戸教会牧師2年目、健作さん45歳)
Ⅱテモテ 1:3-8、説教題「信仰の宿り」
”この信仰は、まずあなたの祖母ロイスとあなたの母ユニケとに宿ったものであったが、今あなたにも宿っている”(テモテへの第二の手紙 1:5、口語訳)
「主よ共に宿りませ」という讃美歌がある(39番)。
夕まぐれ、さびしき寄るべなき身に、主イエスの宿りを祈り、またそのことを確信する信仰の詩である。
「主が宿る」という表現には温かいものがある。
そして、聖書の物語のいくつかの場面を思う。
ベツレヘムの宿屋の家畜小屋に一夜の宿りを得た家族のところにイエスは誕生した。
仲間はずれにされていた取税人ザアカイのところに、「今日あなたの家に泊まることにしている」と言って、この人に「救い」をもたらしたのもイエスであった。
ルカ福音書の復活物語によれば、エマオ途上、イエスの死を悲しんでいた弟子たちに、一夜の宿りを共にし、自らを顕した復活のイエスが示されている。
「神の言」「福音」「イエス・キリストの出来事」が私たちに示され、私たちに分かることを「信仰」というならば、「信仰が宿る」とは、聖書の中心的メッセージではないだろうか。
信仰とは、私たちの内側から努力によって生み出されるものではなく、もたらされるもの、宿るものである。それは賜物であり、恵みである。
信仰が祖母ロイスに宿ったとは、この婦人の人生の色々な出来事に、主イエスが出会われたという事である。
そして、母ユニケに宿ったとは、また全く別な出会いにおいて主イエスがこの人の生きる力と価値観の根拠になったということだ。
親子であっても、信仰は連続しない。
別々な「神の宿り」である。
イエスが「神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マルコ 3:35、口語訳)と言って、血縁がそのまま神に繋がらないことを示したように、厳しい。
そして、近代日本のクリスチャンはそのことを生きて来た。
そして、家を脱し、家族を離れ、礼拝を守る場合が多い。
しかし、親と子が、親であり子である故にではなく、神の御心を行う者として、信仰を宿す者として、出会うことができれば、それはどんなに大きな恵みだろうか。
ロイス、ユニケ、テモテという名の並列はさりげない。
しかし、私たちに、最も気になる親子・家族が信仰を宿して共に生きる可能性と希望を与えている。
家族の絆の薄くなった現代社会で、信仰にある家族の可能性を信じ、そのための祈りを深くする教会でありたい。
(5月13日 礼拝説教要旨)