東の博士たちの旅《マタイ2:1-12》(1978 クリスマス燭火讃美礼拝説教・週報)

1978.12.24、午後7:30、クリスマス燭火讃美礼拝(神戸教会)
▶️ 午前礼拝説教「ベツレヘムの星先立ちて」(神戸教会会報)

(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん45歳)

(本稿は午後7:30からのクリスマス燭火讃美礼拝の説教要旨、午前の週報に掲載)

東の博士たちの旅」 岩井健作

 日常生活の営みに追われて、その中に自分を埋没させてしまっている時には、歩んでいる道筋だけはよく見えているようで、人生の深みというか、人間の成熟にとってとても大切なものが含まれているようなことが、見えないことがしばしばあります。

 逆に、行き詰まったり、岐路に立ったり、思い悩んでいる時、心が日常性の中だけに留まれないような時には、かえって、小さなふとした事柄さえもが人生の教師としての意味を宿すようなしるしとなることがあるものです。

 マタイ福音書の物語においても、イエス誕生の意味が、ユダヤ社会に埋没していた人たちには隠されていて、”東からきた博士たち”という非ユダヤ的世界の人(異邦人)に顕された、というところに一つの強調があるようです。


 この聖書の物語から作られた童話に、『もう一人の博士 ー アルタバン物語』(ヴァン・ダイク)というのがあります。

 3人の博士は救い主を拝みに順調な旅を続けたが、もう一人の博士は、途中で病人や兵士に殺されそうだった赤ん坊や奴隷など、助けを求められ、それに関わって時と宝物を使い果たし、さまよい歩いた結果、十字架のイエスに出会うという物語です。


 そこには、日常性に埋没しないもの、人生を旅のように生きる人間が「救い主」に出会うということに加えて、もう一つのことが語られています。

 それは、日常性に埋没しないとは、日常性を抜け出る旅をすることではなく、「救い主」を求めなければ生きられない無力な自分が、あえて関わらざるをえない日常性(そこで自分が負わねばならない事柄)に関わることなのだと。

 私たちの経験では、日常生活を離れて旅に出たりすると自由な気分を味わいます。

 もし、自分たちの仕事や役目を、そのような旅の気持ちでもって捉えることができたら、どんなに素晴らしいでしょうか。

 苦難を負って生きること、十字架を負うことこそ、「救い主」への出会いの旅なのだ、という告知を聞く日としてクリスマスを喜び祝おうではありませんか。

 私は、原爆被爆者としての苦しみを、逆に同じような被爆者の苦しみが心からわかるため、賜物として捉え返して、カウンセラーとして生き生きと働く一人の姉妹を、忘れることができません。

 その人の生き方が、イエスの徴(しるし)であるような人に出会った喜びは、旅する東の博士たちの味わった喜びでもありましょう。


(サイト記)
この日、午前クリスマス礼拝:マタイ2:1-12、説教題「ベツレヘムの星先立ちて
同日、神戸教会会報 No.90 を発行、そこに説教を収録しています。
表紙絵は小磯良平さんによるものです。

 翌週の週報に、クリスマス礼拝234名、祈祷会6名、クリスマス燭火讃美礼拝320名、CS+CSクリスマス会408名と記録されている。

 25日までにクリスマス諸集会が8つあったこと、翌週週報で次のように(健作さんから)奉仕に対する感謝の言葉が記録されている。

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