召された者の集い《Ⅰコリント1:1-9》(1978 説教要旨・週報)

1978.4.30、 神戸教会週報、神戸教会牧師就任3回目の説教
説教要旨テキストは翌々週の週報に掲載

(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん44歳)

Ⅰコリント 1:1-9、説教題「召された者の集い」

”神は真実なかたである。あなたがたは神によって召され、御子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに、はいらせていただいたのである。(Ⅰコリント 1:9、口語訳)

 人間の問題というものはそれなりの根がある。

 コリントの手紙に出てくるこの教会を彩る醜い諸問題も、虚栄の巷と底知れず絡み合っていたと思われる。

 教会は問題を露呈することにおいて、この世と深く関わり合っているとも言える。

 多くの涙を持って(Ⅱコリント 2:4)戒め、叱り、教え、諭したパウロの心情は、道はるかの思いであったに違いない。

 教会と世俗を二元性のままで生きている有り様は、コリントの教会に限らず、また現代日本の教会のありのままの姿であってみれば、むしろその矛盾と破綻を露わにしていないことこそ、問題の深刻さと言えるかもしれない。


 この手紙の書き出しは、そんな教会をなお「神の教会」と呼ぶ。

 叱責とか、批判とか、これから筆を進めようとするパウロの情念が、まず書き出しにおいて「神の恵みを思っていつも感謝している」(4節)という信仰に包まれている。

 そして、彼のこの教会を見る目は、ある論理基準からあるべき教会へと物差しを当てるのではなく、起こっている諸問題を用い、それらを通してでなければ分かってこないような「キリストとの交わり」(9節)を見ている。

 教会内の諸問題が、この世の生き方の延長線上で担われたりするといった、ありきたりの担い方ではなく、イエスが負わされたような仕方で解決の兆しを与えられていくという視点から見られている。

 ボンヘッファーが「教会は…わたしと他者との間の交わりは破れていること、しかしキリストがその代理行為においてわれわれをたがいに招き寄せ、共に並んで保持したもうことを人が知るところで経験されるのである」(『教会の本質』 p.55)と言っていることが思い出される。

 その意味では、教会生活の中で自分にとっては孤独と感じられることをさえ秘めておくことも「キリストとの交わりにはいらせていただく」(9節)きっかけであろうか。

 ”破れ”が召されている集いへの招きにつながっていくような振幅のある教会であることを共に祈りつつ歩みたい。


《祈り》
 私たちにとっては”破れ”であることまでを用いてなおキリストとの交わりへと招いてくださる恵みを憶え感謝いたします。

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