主のわざ《Ⅰコリント15:56-58》(1978 説教要旨・週報)

1978.4.23、 神戸教会週報、神戸教会牧師就任2回目の説教
(説教要旨のみ翌々週の週報に掲載。山口収副牧師記)

(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん44歳)

Ⅰコリント 15:56-58、説教題「主のわざ」

”感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜ったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。”(コリント人への第一の手紙 15:56-58、口語訳 1955)

「いつも全力を注いで主のわざに励みなさい」(58節)と記されている。

 もし我々がこの文章から「主」という言葉を除いて全体を読むとか、除かないまでも軽く読み流したらどうなるだろうか。

 その時には「いつも全力を注いで仕事に励みなさい」とか「いつも全力を注いでキリスト者のあるべきわざに励みなさい」ということになろう。

 確かに仕事に全力を注いで励むことは生きがいのあることだ。

 自分の仕事のない人生というものは非常につらいものだから。


 しかし、聖書には「主のわざ」とはっきり語られている。

 これには奥深い背景がある。

「コリント人への手紙」は十字架のキリストを前面に掲げた一つの挑戦状のごとき性格を持っている。

 パウロは、信仰というものをある種の完結した知識として、また一定の了解や納得として捉えて、それを誇りにしている人たちに対して、鋭く語りかけている。

 パウロが「主のわざ」と語る時、主ご自身が十字架において成し遂げられたわざという意味が背後にある。

「十字架のわざ」は、歴史全体の罪の問題を神が負われていることの約束の徴として理解されており、苦難を負うということにおいて、救いにあずかっていくという生き方が前面に出ている。

 パウロは、自分の生き方をある一つの完結した考え方や理解の上に組み立てていこうとする生き方をする人たちと鋭く対立する。


「神は、知者をはずかしめるために…」(Ⅰコリント 1:26、口語訳)とパウロは語ったが、彼は自分の生き方をあらかじめ設定しておいて生きようとする生き方を、知者の在り方として批判する。

 我々は、一つのことへの取り組みを”充足”か”挫折”かという点からだけ捉えるのではなく、取り組むことによって、どれほどイエスが十字架において成し遂げられた救いのわざにあずかって豊かであるか、ということを忘れてはならない。

 自己充足の仕事の視点だけではなく、一つのわざが、たとえ未完結であっても、破れ多いものであっても、イエスが負われている十字架と繋がるが故に、この世の罪を包み覆う救いに開かれて繋がっている者であるという、もう一つの視点が大切であろう。


 確かに一つのわざに励む時、それが自分のわざに富むのか、主のわざに富むのか、その区別は非常に微妙であろう。

 パウロも語っている。

”わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである。”(コリント人への第一の手紙 15:10)

 我々もそれぞれが奉仕の場を持っているわけであるが、それが「主のわざ」に繋がり、神の恵みの現れであるのならば、労苦や無駄と思えることがたとえ重いものであっても、我々を損なうものでないであろう。


《祈り》
 私たちのわざをきよめて、主のわざに繋がる者として下さい。


(説教要旨:翌々週の週報に掲載。山口収副牧師が記録)


 

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