1978.4.16、 神戸教会礼拝、神戸教会創立104周年
第12代 神戸教会主任牧師としての初めての説教
(説教テキストは翌週週報に掲載)
(牧会20年、神戸教会牧師 1年目、健作さん44歳)
マタイによる福音書 11:28-30、説教題「くびき」
「重荷を負って苦労している者はわたしのもとに来なさい」(マタイ 11:28)と記されています。
”すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。”(マタイ 11:28、口語訳 1955)
人は誰しも他の人には分かってもらえない重荷を負っているものです。
分かってもらえないということは、それが一般化できないもので、また本人にとっても自分でどうすることも出来ないといった性格のものを意味しています。
しかし、そこにこそ焦点があてられていることは慰め深いことです。
苦難を信仰の根底に捉えるといっても、個別の苦悩を生老病死といった普遍的なものの中で見直し、醒めた心へと開かれていく方向をとるのが仏教の信仰であると申します。
聖書では逆にどこまでも個別なものを繰り返しのきかない固有な出来事として深めて捉えます。
「苦労している者」が招かれます。
その招きは「重荷」の意味の解釈や再把握ではなくて(当時の律法学者が「神の知恵」を説いたのとも違って)、「来なさい、私のもとに」という原文の語順が響かせているように、招く方に目を移すことによって、自分の重荷を思いめぐらすことに停止をかけられるような招きです。
私たちはそこで「柔和で心のへりくだった者」(マタイ 11:29)を示されます。
”わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安みが与えられるであろう。”(マタイ 11:29、口語訳 1955)
”キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。”(ピリピ人への手紙 2:6-8、口語訳 1955)
と語られる”へりくだり”です。
この”へりくだり”は、重荷を固有の出来事として受け取っていく(歴史化していく)”へりくだり”への招きを含んでいます。
自分の重荷を自分の力で何とかしようという思い上がりからゆるめられ、重荷が手がかりとなって、イエスのへりくだりに幾分かでも繋がる生き方へと変えられていくならば、その経験こそ恵みと言えましょう。
イエスの招きは、個別の重荷をイエスのくびきにつなげる招きです。
「くびき」は当時の農耕の道具であるように、耕して育てるものでありますが、たとえ歴史の不条理(エレミヤ 28:14ではバビロンの圧政を「鉄のくびき」と言っている)と思われるものさえも、「わたしのくびきは負いやすく」(マタイ 11:30)とあるように、神のみ手のうちに置かれているのではないでしょうか。
”わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」”(マタイ 11:30、口語訳 1955)
教会の歴史(104周年創立記念日にあたり)もまた個別の重さを持っています。
それを苦労して負えばこそ、そこにイエスの招きを聴きとってまいりたいと存じます。
《祈り》
教会の歴史の記念すべき時にあって、イエスのくびきにつながっていく心を強くしてください。





