1960年8月7-8日「夏期集会のために 1960」
日本基督教団 呉山手教会
集会主題「現代の教会」講師:高倉徹
(教団戦争責任告白の7年前)
(呉山手教会牧師、健作さん27歳)
”そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えた。”(エペソ 1:22、1955年口語訳)
広島市には数多くの平和団体がありますが、その一つにキリスト者平和奉仕会というのがあります。安保反対運動では市民層の動きという観点から、新聞がこのグループの動きを大きく扱っていましたから、皆様もご存知だと思います。ある集まりで、もう60代になられるかと思われるこの会の会長S牧師が、雑談の折に、私はこのような運動の拠り所を「キリストの王権」”Regnum Christi”という神学思想に置いていると語っておられました。これは世界に対するキリストの主権を確認すること、即ち個人を救済するキリストとしてだけではなく、全世界を支配するキリストに気づくことが大切であるという思想です。キリストの支配は隠されていてさやかに見えないが、その支配と主権を知っていることが教会であって、教会はそのことを世界に対し気づかせる役目があるというわけです。この考えはヴィサ•トーフト(『現代ヨーロッパ神学』新教出版社)やクルマン(『キリストと時』岩波書店)によって展開され主張されました。そして日本でも教会が自分の内側に閉鎖的に閉じこもることをやめて、平和問題や学生問題、社会問題といった広い領域に出かけてゆく原動力となっている思想です。
エペソ人への手紙1章22節は、いわばこういう考えを裏付けている新約のテキストの一つです。キリストが万物(世界)を従わせ、支配するという表現の型(パターン)は詩篇110篇にあります。これは本来歴史上の王に捧げられた歌ですが、新約ではキリストの主権を表すものとして十数箇所に引用され解釈されています。
これは、キリストの支配を強調した叙述であって、確かに閉鎖的になりがちな私たちに広い視野を与えるという点では、意義を持っています。しかしそれは、ある真理の一面をそれに限って明確にしようとしているのであって、これがそのまま思想や神学という枠を超えて固定的に一つの立場になったりすると妙なことになります。神学的現実があたかも本当の現実のようになって、私たちの上に覆いかぶさってしまいます。
私たちの現実は「キリストが世界の主である」と思い込むことによって、人類を破局に向かわせる戦争が起こらないなどと安心していることは出来ません。朝日ジャーナルに連載されているロシュワルトの『レベル7 − 第七地下壕』(1960)では、とうとう2大国がお互いにボタンを押して − しかもその発端は技術的手落ちによってミサイルが電子管理装置から離脱したことによって始まったのですが − 深い地下壕にいる軍人を除いて全部死滅することになっています。私たちには対立を続ける世界や、過渡期にあって混乱をする日本やどうにかこうにか一本立ちをしている山手の教会が現実であって、これを観念的に飛び越えることは出来ません。私はこの句を読みながら、神学的現実を自分のものにしようと努力すればする程、身の回りの現実に気がついてしまうという羽目に陥りました。
しかし、そのような日常的現実の中にうずくまってしまうのではなくて、何とかして自分に出来ることだけはしようと思って、毎日の自分の仕事に元気を出し、平和の問題のことを考えたり、日本の歴史や世界の動きに目を開いたり、教会の仕事をしているうちに、イエス•キリストが私の行動を無意味にしないで支えてくれる根拠になっていることにも気がつき、私たちを打ちのめすような現実の中で自分自身を強く保ってゆこうとする決心と共感するものを、このテキストに感じます。
「彼を万物の上にかしらとして教会に与えた」という句は、二通りに読むことが出来ます。口語訳はその一つの見解をとっています(アボット等)。もう一つは「教会に」というのを見地を示す句(与格直説法 “dativus indicantis”)ととって「教会にとっては彼がかしらとなっている」と解釈するのです(R.S.Vやバウエル)。私は後者に賛成です。私たち一人ひとりがイエスによって自分の行動の主体性を確立している時、私たちは教会という場に立っているわけです。
かしら(”ケファレー”)は旧約の”ローシュ”(かしら)から出た意味で、この語がギリシア語に訳される時、”アルケー”(根源)とも”ケファレー”とも訳されているので、根源とか根拠という意味です。私たちがイエスを根拠として現実に参与して生きてゆくとき、彼を根拠とする教会という見地に立ち得るのです。教会は具体的な形をとるとき、建物を維持したり、制度を立てたりします。しかし何よりも大切なことは、私たち一人ひとりがイエス•キリストによって呼び出されて人間となっていることです。
私たちの教会は設立からもう70余年になります。しかし、70余年になるという大学を古いと言った日本の学者をシュヴァイツァーが笑って「大学が古いというのは千年も歴史を持つことを言うのだ」とたしなめたように、私たちは開拓期を生きていると言った方が適当かと思います。教会がイエスにあって日一日と若々しくありたいと思います。
(岩井健作)
主よ、ともに宿りませ(2011 呉山手教会 創立120周年・礼拝説教要旨)
2011年11月6日、呉山手教会 創立120周年 記念礼拝
教会の風景(6)旧海軍のあった教会(呉山手教会)
(サイト記)1960年3月30日、健作さん、広島流川で2年の後、主任牧師として呉山手教会に赴任。同志社を出て2年、牧会3年目。
「呉山手教会 1960年 夏期集会」は8月7日(日)8日(月)開催、主題「現代の教会」、講師は二日とも岩国教会牧師:高倉徹。5年後、高倉は教団総幹事に、健作さんは岩国教会にそれぞれ赴任。戦争責任告白の7年前、1960年の8月の集会である。
以下は「岩井」のスタンプがないものの、健作さんの「聖書研究」(プログラムでは月曜朝の15分)に使用されたものであろう。
聖書 − 私訳と講解
”今わたしは苦難の中にいても、あなたたちのために喜んでいる。そして私自身に、キリストの悩みが充分でないことを彼の体である教会のために、充たしている。”(コロサイ 1:24、岩井私訳)
これはパウロがコロサイ教会のグノーシス的異端(2:8)に対して警告を与えた手紙の一節。
1.「苦難の中に」は背後に彼がローマに捕われの身であった執筆事情がある。「あなたたちのため」と言っているが、彼はこの教会(弟子エパフラスが設立 1:7)の人たちに直接会ったことがないのである(2:1)。「喜んでいる」と共に手紙文の枠として軽く読んだほうが良いだろう。
2.「キリストの悩み(”プリシス”)」はいわゆる「イエスの受難(”パセーマ”)」そのものではない。「悩み(口語訳「苦しみ」)」はパウロの内側に根ざしている、いわば主観的現実を指している。「キリストの」は主格的属格で、所有者を表している(お父さんの絵と言った場合、お父さんが描いたとか、持っている絵を意味するように)。そこで「キリストの悩み」は感性的体験ではパウロのものであるが、それはイエスが所有した「悩み」と同質のものとして結びついている。「(史的)イエスの」と言わずに「(告白的称号である)キリストの」と言っているのは、パウロにはイエスとの死への共感だけでなく彼による生への共感があって信仰告白的にしか言い表せないイエスの人格について言っているからであろう。この句を「キリストにあっての悩み」と理解してよいと思う。
3.「充分でないこと(”ヒュステレーマ”)」は他の用法(コリントⅠ 17:17、同Ⅱ 11:9、9:2等)と同じく、充溢に至らない状態を言うのであって、欠如を意味していない(バウエル)。
4.「私自身に」と私訳したが、口語訳は「私の肉体をもって」となっている。普通「補う」にかかる句とされているが、「悩みが充分でない」にかけた方が当をえていると思う(原文より)。私自身(”サルクス”)と言う限界内に留まりながらも、ともすると、その人間の現実という限界を忘れて、”サルクス”(肉)から離れがちな自分の経験を「キリストの悩みが充分でない」と言っているのであろう。
5.「充たしている(”アンタナ•プレーロオー”)」は新約中でここのみに用いられている語。「満たす」「補足する」という意味である。「充たす」とは、より深く人間であることの現実に沈むことによって「キリスト」とのつながりを確かめようという姿勢であろう。
6.「彼の体である教会のために」。教会をキリストの体(”ソーマ”)という時、その用法は共同体を示す。その背後には「一体としてのからだ」「肢体をもつ体」「パンをさくことで想起されるイエスのからだ」という想思がある。「ために」は対自的には「役立つために」と考えられるが、同時にそこに即自的には「確認するために」「あずかる、参与するために」の意味を読み取るべきであろう。
さて、この一節は(キリストである)イエスに出会うことを可能とする土俵、即ち教会を確かめようとするパウロの内なる叫びととってはどうだろうか。人(ここではコロサイ教会)に説こうとする場合、同じ量と深さだけ自己の内側へたどる以外に、教会について語れないのではあるまいか。







