日本基督教団 広島流川教会 学生会•共励会合同集会
1959(昭和34)年3月21-22日、小冊子「άνα-γινώσκομεν」
主題「聖書を読もう – その告知をどのようにして生活のなかで体得するか」
(広島流川教会伝道師、健作さん25歳)
マルコによる福音書 2:1-12「中風の人をいやす」の箇所
聖書研究
僕は今日、神様のお話をしようとは思っていません。
大祭司カヤパの中庭でイエスが審かれたときのことです。「あなたは神の子キリストなのかどうか」と問われると、イエスは「あなたの言う通りである」と答えました。すると大祭司は衣を引き裂いて「彼は神を汚した。どうしてこれ以上、証人の必要があろう」「彼は死に当るものだ」と言ったということです。またイエスが中風の男をいやしたときも、律法学者たちは「この人は神を汚している」とつぶやいたとマタイ福音書は記しています。
神を汚すと、一人の人間が死刑にされなければならないような、いかめしい神はもうたくさんです。今日でも、僕たちが「神」を語ると、そこには冷たい、人を審くような人間関係が出来てしまうことは、よく経験することです。そして、そこでは福音書が記しているような、イエスによって作られていた、体温のある関係が消えてしまうような気がするのです。
僕たちが「聖書を読もう」と言っているのは、イエスの弟子たちや原始教団の人たちが、イエスに出合うことで持っていた人間と人間の暖かい関係の実感といったものを、僕らのものにしようと言っているのです。
僕たちは傍観者の立場で、現代の世界が、そして人間が冷え切っているというようなことは嫌ほど言ってきました。しかし僕らは、その中に生きているのです。冷たいという事実にじっとりと足をつけながら、いや温かいんだと言って生きてゆく根拠が欲しいのです。不条理を耐えてゆくゆるみを希(ねが)っているのです。ときどき、まいりそうだと思う時があるのです。
「神は愛なり」という言葉を百万遍繰り返したって、その根拠は出て来ません。僕らは愛といわれる関係に入りたいのです。そしてその希いは、イエスに出合った人たちが記録したと言われる聖書を手がかりにして、僕らもそのイエスに出合って、その関係を僕らのものにしたいという希いなのです。何しろご承知のように、その聖書というのが昔々の書物です。読むのに多少とまどいを憶えることがあるでしょう。ちょっと、しんぼうして下さい。僕も、見え隠れするイエスその人との関係を求めて、お手伝いします。
どうも前置きが長くなりました。そこでよく分からないと言われる奇跡物語を一つ取り上げてみました。マルコ福音書2章1〜12節です。これは純粋に奇跡物語だけではありません。格言(”Apothegm”)(5b-10b)と奇跡物語(1-5a)の結合です。この奇跡は自然奇跡(水の上を歩くとか、パンが増えたとか)と違って、いわゆる病人を治癒するものです。この物語のみ見ますと、記者はイエスが「地上で罪を許す権威を持っていること」を言いたいようです。そしてその権威の力を示すために奇跡をもって来ます。しかし、ここで奇跡がイエスの力を証明しているというのではありません。何としても記者自身また原始教会自身が持っていた、復活のイエスに出合った生々しい体験をこういう文学形式に記して、告知しようとしている、ということが中心の問題です。奇跡の事実がほんとうかうそか、そこに中心はなくて、告知が事実なのかどうかが問題だというわけです。
イエスに触れた人間が、寝床に縛りつけられた不自由な人間から、床をとりあげ、ひとりで歩いたということに中心があるのです。「罪を許された」ということと「起きて床をとりあげて歩め」とは相互に入れ替えてもかまわないのです。
奇跡の問題が、イエスにふれた人間がどんなに変わるかという問題にすり替えられたと言う人があるかもしれません。でも奇跡の問題を頭で取り組むからそうなるのです。僕らがイエスに出合って変わるとき、イエスがなされたという奇跡の物語も、イエスその人を示す"しるし"になるのではないでしょうか。
複眼の教会(2016 広島流川教会130周年)
教会の風景(5)原爆を受けた教会(広島流川教会)

