一粒のからし種のようなもの – 状況に負けない人間の重み

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第58回「新約聖書 イエスのたとえ話」①
マルコ福音書 4章30節-32節

1 、「お母さんはあなたを愛しているのよ」といった場合、それは母と子の「関係の真理」ですから、その言葉が身に染みる「事実」がなかったら空々しいものとなるでしょう。聖書でも「もし兄弟あるいは姉妹が…その日の食べ物にも事欠いているとき、… 『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』というだけで体に必要なものを何一つ与えないならば、何の役に立つでしょう」(ヤコブ 2:15-16)とあります。「関係の真理」はその関係を証する「裏づけ」が大事です。銀行の小切手でも「裏書き」がないと通用しません。「関係の真理」を言葉の論理で語る難しさをまず知っておくことが大事です。

2 、「理論」と「実地」の相関関係(たとえば。お料理)は、日常でも大事ですが、人間関係、特に「神と人」との神関係では大事なことです。キリスト教で説かれている真理は、その「説き方」(方法論)が即「真理」です。「言葉が肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)は「神(言葉)」が「イエスという人間(肉)」の姿となった、と言っていますが、「宿る」はイエスが歴史の中で、振る舞い、言葉を残し、十字架で苦難を負われた、ということを含意しています。苦難を負うことは、「方法論」であり、同時に「内容」なのです。だから、キリスト教では、「言葉(説教)」と共に「パンとぶどう酒(礼典・しるし)」があります。

3、さて、論理によりかからない「関係の真理」の伝達方法に「しるし」があることは、キリスト教では象徴的なことですが、一般的に、たとえば「愛」は「関係の真理」ですが、「お花」を愛の「しるし」に用いることがあるでしょう。「しるし」をもう少し言葉化して日常的に用いる、伝達手段が「たとえ」です。これは「言葉」や「論理」に対して、人間の経験や感性に訴える伝達方法です。譬(たとえ)はギリシャ語で「パラ(かたわら)ボレー(置く、投げる)」と言います。(英語のparable)。 「関係の真理」のかたわらに、何か経験できるものを置いて、それを通して「気がつく」「悟る」「想像する」という理解の仕方です。

4 、イエスは民衆に「神のこと」「神の支配(聖書では『神の国』『天の国』と表現している)」「神が生きて働いていること」を伝えるのに、「譬」「譬話」「比喩」を用いました。教会の日曜日の「説教」でも、論理、教理、教えだけを語ったのでは、論理の「スタディー(学び)」にはなりますが、「関係の真理」である「福音(よき音信)」 が受け取り手によほど理解がないと、心の通いとして伝わりません。下手でいいから、「聞き手」の経験に訴えて「シェア(分かちあい)」できる「譬」「経験談」「例話」「余談」が必要なのです。ここが、語り手が苦労するところです。下手をやると、単なる人生論になって、「関係の真理(福音)」が不明確になってしまいます。
その点、イエスは「譬」で語ることの名手でした。聖書の中の新約聖書、特に<「福音書」文学>を通して、イエスの説いたところを知るうえで、「譬」「譬話」は一つの大事なジャンル(様式)なのです。

5 、さて、前置きが長くなりました。「からし種」の譬の強調点は、「小さなこと」「成長すること」「やがて大きくなること」のどこにあるのか意見が分かれる所です。いずれにせよ、これは、農民に分かる話です。神殿の荘重な「神」の問題を、イエスが農民の現実に取り戻した所に意味があります。
神殿中心の権力から、押し潰されそうな現実に生きている農民に、状況に負けない人間の重みを語っています。「神はいるのだ、自分を含めてからし種のような小さな現実の命を見守っておられるのだ。神の目には驚くほどの希望も宿されている」というメッセージであったと想像されます。現代の私たちにもいろいろな想像が許されているのではないでしょうか。


更に、イエスは言われた。
「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

新約聖書 マルコ福音書 4章30節-32節


イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」

新約聖書 マタイ福音書 13章31節-32節