2013.4.14、明治学院教会(309)復活節 ③
(明治学院教会牧師、健作さん79歳)
民数記 12:2-8、マタイ11:25-30
”モーセという人はこの地上のだれにもまさって謙遜であった”(民数記 12:3)
”わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びさい”(マタイ11:29)
1.「謙遜」という言葉は、今まで人生で交わりを与えられた幾人もの方たちの記憶を蘇えさせられる。
片岡慶彦さんは、山口県の同じ地域の小さな教会の牧師を地味にしておられた。慎ましい方であった。
ある年、木版画で器用に「へりくだって貧しい人々と共におるのは、高ぶる者と共にいて、獲物を分けるにまさる」(箴言16:19、口語訳)と彫って、年賀状で送って下さった。
1970年代、高度経済成長期、日本のアジアへの経済侵略が叫ばれていた時代であったので、この言葉はインクの香りと一緒に心に沁みた。今は亡き、彼の人柄と共に言葉が暖かく生きている。
2.聖書で「謙遜」を考えるには三つの面を忘れてはならない。
①「謙遜」はまず第一に、「イエスの出来事」である。
”わたし(イエス)は柔和で謙遜(タペイノス)な者だから”(マタイ 11:29)
”キリストは、神の身分でありながら……人間の姿で現れ、へりくだって(タペイノオー)、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした”(フィリピ 2:6-8)
② 第二は「人間が神に関わる(従う)基本的な姿勢」。
”モーセは…だれにもまさって謙遜であった”(民数記 12:3)
”謙遜(タペイノス)な者には恵みをお与えになる”(ヤコブ書 4:6)
”主の前にへりくだりなさい”(ヤコブ書 4:10)
そのほか、引用すればキリがない。
③ 第三は「人の謙遜が神の謙遜に繋がっていくにはどうしたらよいか」ということ。
ここでは「謙遜」を努力するというような倫理目標に考えてはいけない、ということが明確に押さえられねばならない(パウロのいう律法主義の克服である)。
人を「謙遜」に至らせるのは、そのこと自体が「神の出来事(恵み)」である。
”主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ”(ルカ 1:51-52、マリヤ賛歌、マグニフィカート)
”神は地の面に雨を降らせ、野に水を送ってくださる”(ヨブ記 5:10)
”嘆く者を安全な境遇に引き上げてくださる”(ヨブ記 5:11)
「招き(恵み)」がまずあって「応答(主体的決断)」が呼び覚まされる時にこそ、「人間の謙遜」は初めて芽生え、形を為す。
「謙遜」を妨害する「自分本位/自己中心」いわば「自分の命を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従ってきなさい」(マルコ 8:34)という逆説を会得しないといけない。
「謙遜」は関係概念なのである。
”だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる”(マタイ 23:12)。
「謙遜ぶること」は裏返しの「高ぶり」であろう。
3.僕の友人の小林茂さんは、陸軍幼年学校(軍人)で敗戦を迎え、戦後、税務署の官吏だったが、退職浪人、その後、袋物商(ふくろものや)の住み込み丁稚小僧をやった。
後に、賀川豊彦の伝道集会でキリスト教に触れ、牧師になった。人生で一番役に立った経験は、丁稚の経験だったと著書『キリストの証し人』(小林茂、教文館 1997)に書いている。味のある話である。
meigaku_iwai_309◀️ 2013年 礼拝説教