エレミヤ書 16章19−21節、ヨハネの手紙一 3章1-12節
2012.7.1 明治学院教会(278)聖霊降臨節 ⑥
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。(ヨハネの手紙一 3:2、新共同訳)
(明治学院教会牧師、健作さん78歳)
1.「子どもの喧嘩に親が出る」という諺は、親の大人気なさをたしなめたものです。
子どもはいろいろ経験して「成熟」するのです。親はその成熟を見守ること、信じるのが役目です。
親は子にとって終末論的存在(現在そうでありながら、やがて最後に真の意味が明らかにされつつ、出会う存在)です。
親の棺の傍で、親の存在の重さに涙していた、ある息子の姿を忘れることが出来ません。
2.今日の聖書の箇所
今日の聖書の箇所は、神は既にイエスという歴史的存在の内に、十分自らを現されながら、なお、やがて「御子をありのままに見る」(3:2)と言っています。
この手紙が「グノーシス(認識)化された救い」の理解を説く「偽り者」(2:22)と、その「教え」(2:28)への反駁の書であることは繰り返し述べました。
論敵は「神を知っている」(2:24)と言います。神を認識しているのです。
その認識には「時の経過」がないのです。一種の「知的悟り」なのです。
「御子に似た者となるということを知る」という知り方とは違う「知り方」です。
この「知り方」の違いが問題なのです。ヨハネは「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(3:1)と言います。
「考える ”eidon”」は知的認識ではありません。考察することですが、感じる、経験する、出会う、という幅を持った言葉です。それは、知的・理性的営みですが「時間の経過」の中での営みです。
「神の愛」を「人と人との関係(愛)」によって経験し、確かめてゆく知り方です。
4節から10節には「法」(法の対義語としての「罪」)とか「義」という概念が出てきます。それは「自分の兄弟を愛する」ということと同じ事柄だと言われています。
つまり「神の愛」は「人を愛する」事柄の中で経験されるのだ、ということです。
「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。」(ヨハネの手紙一 3:9、新共同訳)
とまで言っています。
神関係と倫理は密接に結びついています。それが結びつかないのがグノーシス者でした。
ヨハネでは「義を行う=イエス(御子)と似た者となる=互いに愛する(11節以下)」ことの全体が「知ること」でした。
3.不条理を突き抜ける希望と慰め
11節以下で(ここはこの手紙の唯一の旧約からの引用、創世記4章)、カイン(農耕者)がアベル(牧畜者)を殺害する出来事を、「互いに愛し合うこと」の対極の話として語ります。
歴史の文脈の中では「強者」と「弱者」の関係を象徴しています。
現代的には、軍事力(核の力)・経済力で勝負する世界を象徴します。
気の遠くなるような「不条理の世界」です。
でも、そこでの経験を通して、神の愛が知られてゆくことは、終末論的出来事です。

「これから自分を神にだんだんと委ねてゆけると思う」
と癌の末期に信仰告白をして受洗した、ある姉妹の「だんだん」という言葉が「不条理を突き抜ける希望と慰め」として思い起こされます。


