コヘレトの言葉 9:7-10、ヨハネの手紙一 2:18-27
2012.6.24、明治学院教会(277)聖霊降臨節 ⑤
(明治学院教会牧師、健作さん78歳)
1.先週金曜日、「脱原発」で2万人が首相官邸を囲みました。
「脱原発」運動には楕円のように二つの焦点があります。
政府などへの批判と自分達のライフスタイルへの反省です。
「ヨハネの手紙一」にはそれと同じように、外側にある「異端説への反駁・批判」と、内側での「兄弟愛実践への反省」という二つの焦点が繰り返されます。
2.今日の箇所
今日の箇所は「反キリスト」という見出しのように、「異端説」への激しい反駁の箇所です。「異端説」の主唱者は、自分達のキリスト教理解が正しいとの自己意識をもった教会内グループでした。
背景は紀元1世紀ごろのグノーシス主義という、独自の宗教思想でした。この分野での研究の第一人者で新約聖書学者の荒井献氏は次のように定義しています。
「人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた究極的存在(至高者)とが本質的に同一であるという「認識」(ギリシャ語で「グノーシス」)を救済とみなす宗教思想のことである。」
(『新約聖書正典の成立』荒井献、日本基督教団出版局 2005、p.94)
当時、小アジアのケリントスは、この思想に立って、キリスト教を解釈し、救済者・至高者は「仮に」地上のイエスに宿ったという「仮現説」を主張しました。
この主張に対して、地上のイエスは「仮」ではなく、その人そのものが神の啓示者・救済者(キリスト)であるという「キリスト論(イエスなしでは済まされない)」を展開したのが本書(ヨハネの手紙一)です。
「イエスがメシアである」(ヨハネの手紙一 2:22)という信仰的な逆説なのです。
3.「異端」は、「正統」が自己を絶対化して、異なるものを排除する硬直さへ傾く時、問いとして起こって来ます。
教会の制度・職制・教義の固定化の弊害に反発して、自由な認識・悟りをもって救済理解とする運動が起こっても不思議ではありません。
異なるものとは対話が必要です。その点、ヨハネは批判しつつも「包む」という対話を持っています。(ヨハネの手紙一 2:12-17、6月10日レジュメ参照)
4.しかし、グノーシス主義を枠としたキリスト教理解には、限界・弊害があります。
彼らの理解では、イエスなしで救済が成り立ちます。
歴史のイエスの振る舞い・生涯こそが「神の出来事」である、という逆説性がなくなってしまいます。つまり、イエスに関わらなくても救済は成り立ち、救済を単に知識とすることが出来たのです。
イエス(神)との関わりは、神がイエスに置いてこの世(人)と関わったことに基づき、その関係の中に生きる実践的生き方(方法)を伴うことです。
だから「愛の戒めを守る」(3:11)を抜きにして救済に与かることは出来ないのです。
「いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。」(ヨハネの手紙一 2:27、新共同訳)
「油」つまり、イエスとの関係が大事なのです。イエスを弁護者(2:1)として彼に従うことが救いなのです。
5.知識は人を分け、愛は人を繋ぐ、と申します。
人を繋がない「信仰理解」はどこか怪しいのではないでしょうか。
ヨハネの主張はそこにあります。
「案ずるより生むが易し」とは、人を繋いできた実践的・経験的知恵の諺です。批判的主体でありつつ、繋ぐ温かさを!
これがヨハネの主張なのです。

