主題「弱者に対する聖書の視点」
2009.1.15(木)午後、
第37回 神戸聖書セミナー2日目、第3回
1.評価
日本のプロテスタント(福音主義)教会の講壇では「ヤコブの手紙」はあまり取り上げられない。何故か。それは宗教改革の伝統に立つ教会が多いからであろう。そこでは「信仰義認(ローマの信徒への手紙 3章21節以下)」が強調される。16世紀の宗教改革者マルティン・ルターはこの手紙について、パウロの正統的信仰を損なう危険を伴うゆえに「藁(わら)の手紙」だと蔑称した。それは、この手紙が「行い」を強調するからである。
しかし、現今は状況が異なる。この手紙の貴重さを聖書学者は指摘する。
「新約聖書中のパウロの名をつけた文書が、正統派教会の正統意識を固定化する水準であるのに対し、……1世紀末ごろのキリスト教の多彩さを知る上で重要な文献」(田川建三)
「興隆する中産階級の教会員たちが、世俗の営利活動にうつつを抜かして富者達に迎合する一方、その価値観念を教会内に持ち込み、教会の貧者を甚だしく軽蔑していることに我慢がならなかった……のが著者」(佐藤研)
「神への完全なる服従を可能にする鍵は『律法』[筆者注、行い]にある。……著者がパウロの信仰義認論に抵抗を示したのも、まさにこの点を巡ってのものである」(辻学)
ルターの時代状況では、中世のカトリック教会の「免罪符(中世カトリック教会が発行した証書・贖宥状)」が圧倒的力を持っていたので、パウロの復権が大事だったのであろうが、これら聖書学者の発言は、それを「教義」として固定化した福音主義の神学のあり方への批判を含んでいると言えよう。
2.概要
① 解題
著者は<神と主イエス・キリストの僕であるヤコブ>と名乗っている。原始教会で権威ある「主の兄弟ヤコブ」(ガラ1:19)が「ディアスポラ(離散)」のユダヤ人共同体に宛てた手紙の形を取っているが、著者がそのヤコブでないことは定説。
② 内容
教会の「世俗化」への警告。世俗価値観を優先させ、本来の信仰者の姿を失っていることを批判する。著者のいう「試練」は世俗に流される「誘惑」である。
著者は、貧しい者が軽く扱われ、金持ちが力を持つ教会(2:2-26)、富める者が教会の指導権を争う教会(3:1-4:2)の背後に、パウロの「信仰義認論」の影響を見ている(2:14-26)。著者は富者批判をする(5:1-6)が、手紙のベースは貧しい者への忍耐と祈りへの勧めである(1:2-8・12-18、5:7-11)。
初代原始教会全体を見れば、それなりに富める人達が奉仕をしていた。ルカ福音書、パウロ書簡は富める者を戒めながらも、それなりに居場所を作っている。現実路線である。しかし、ヤコブはその様な居場所を作らないで、預言者の精神に立って世の中を見る姿を貫く。
③ 成立年代、成立地
上限紀元62年、下限1世紀末・80−90年代。シリア・パレスチナ地方と一般にいわれている。
3.テキストを読む
声に出して一人で読んでみました。16〜17分です。20分あれば1−5章の通読が出来ます。
そこでまずテーマを三つに分類します。それをいろいろな方法で読んでみてくださいませんか。個人で黙読する。二人・三人・あるいは数人のグループを作り輪読(一節づつ順番に読んでゆく)したり、グループでも各自黙読をしたりしてみる。そうして、素朴な心証などを、書き留めてみる。出来ればそのテキストの中から一句あるいはキーワード(鍵語)を選んでみる。それを、分かち合って「ヤコブの手紙」への理解を深めたいと思います。読後の印象など記す用紙をお渡しします。
Aグループ「貧しく虐げられた人たちと、金持ち・商業至上主義者たちの現実」
1:9-11(貧しい者と富んでいる者)
2:1-13(人を分け隔てしてはならない)
5:1-6(富んでいる人たちに対して)
Bグループ「信仰義認論を批判している箇所」
2:14-26(行いを欠く信仰は死んだもの)
Cグル−プ「試練と忍耐と祈り」
1:2-8(信仰と知恵)
1:12-18(試練と誘惑)
5:7-11(忍耐と祈り)
4.参考資料
(明治学院教会で2007年2月18日から2007年6月24日まで、12回に分けて「ヤコブの手紙」をテキストに説教をしました。テキストと説教題と短いコメントを記します)
①「心を定める」 1:1-8
5節「惜しみ無く」はヤコブ特有の言葉。分割されない、澄んでいる(マタイ6:22)。8節「心定まらず」は「二心のもの(自己分裂)」。「試練」はひたむきを促す。
②「幸いな人」 1:9-12
ヤコブには一貫したテーマがあるわけではない。個々の勧めが断片的に並ぶ。当時の公同書簡(ペトロ1・2、ヤコブ、ユダ、ヨハネの手紙1・2・3)が宛てられた教会には超大地主の富裕者がいたとは思われない。「兄弟」がついているのは貧しい者。しかし、収奪と搾取をする富める者からの悪、「格差・貧困」を問わなくては「神の問題・人間の問題」は論じられない。貧しい(タペイノス)はヤコブでは2か所だけ、イエスが語った極貧(プトーコス)をヤコブも多く用いる。後者は預言者の宗教の伝統用語(エゼキエル17:24・21:31、マタイ23:12)。「幸い」は「救いがある」の意味。貧困を実存にまで引き受けて生き抜き闘うことで、成金に魂まで奪われまいという気概がある。
③「良い贈り物」 1:13-18
当時、パウロの信仰義認論を盾に自己正当化をするやからがいた。何もしない、客観化された救済論ほど厄介なものはない。これでは救済論が泣く。それではとヤコブは創造論の領域で語る。「良い贈り物は…御父から来る」(1:17)。「初穂」いい言葉ではありませんか。
④「ことばの力」 1:19-27
ヤコブは「言葉即行為」というセム語系文化を継承している。ユダヤ系キリスト者であろう。ゆえに律法が戒律ではないという自由を獲得していた。パウロが律法の否定から思考するのとは違った生活基盤にいた。だから「自由をもたらす完全な律法」(1:25)と表現する。行為が意識と乖離しない。「超越的無意識」(紀野一義)の世界に通じている。川崎洋『ことばの力』(岩波ジュニア新書)の世界を想像させる。
⑤「貧しい人たちをあえて選ぶ神」 2:1-7
ここのお話はリアルである。紀元1世紀末の教会はこんな状態だったのだろうか。他人ごとではない現代の教会のアナロジーかどうかは各人の想像に委ねたい。南北問題では北の収奪が自覚されたが、新自由主義のグローバリゼーションの今は、足下の収奪がそれに重なっている。貧困層が38%だというのはアメリカと日本である。「あえて選ぶ」。凄い言葉だ。
聖書は「貧しさ」に積極的意味を与えている。「貧しい者は幸いである」(ルカ6:20)は<貧しい者が幸いにならないでは、どうして幸いなどというものが有り得ようか。同時に、貧しさゆえに知り得た神の恵みがある>この両面を表現しているのであろう。ルカは「金持ちとラザロ」(16:19f)をパウロは「神の選びは、世の無学なもの、無に等しいもの、身分の卑しいもの」(1コリント 1:26-31)といって、貧しさの意味を神との関係で語る。日本の現実で「貧しさ(それは同時に弱者とも重なる)」の問題にどう関わるか。格差社会の構造を知り、絶対的貧困 (生活出来ない)、相対的貧困(平均所得との比較)への認識を持ち、具体的に、その緩和・共生への関与を自分の生活とどう関わらせるかを一人一人が、また教会の問題として考えてゆこう。
⑥「古くて新しい戒め “殺すな”」 2:8-13
「頭隠して尻隠さず」。口で平和/生活や行動で戦争荷担という構造をどれだけ身に引きつけて自覚し、克服するかという問題。ヤコブの律法理解はパウロとは異なる。罪の自覚で止まるパウロを突き抜けて、律法は救いだというところまで抜きでる。無に等しい存在がなお赦されているゆえに、戒めへの応答の存在として肯定されていること、救いは倫理にまで貫徹されていることを促す。そうして「殺すな」にこだわる。申命記 5:17の「殺すな」は直訳では「お前は殺すことは有り得ない」となり、神の信頼、命の肯定を表す。この戒めは極めて現代的である。抑止力などといって結局軍事力で「食っていく」ことを認めてしまう世界の構造に、「否」を言い続けてゆく存在として、弱者と共にある「神」を証ししてゆきたい。
⑦「行いを伴う信仰」 2:14-26
ヤコブの著者の相手方は、「信仰をもつ」(14)、「信仰がある」「信仰をみせる」(18)と信仰を自分の持ち物のように表現する。「結構なことだ」と肯定して。でも宗教的信念が他の人との関わりがなければ「何の役に立つだろうか」とヤコブは反論する。そうして熟知のアブラハム・ラハブの故事をあげて説得する。パウロの「人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰による」(ロマ3:28)という公理のような命題に対して、「人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」(24)と堂々と、信仰義認論の理解に問題提起をする。これは、公理と公理の理論的論争ではない。そもそも「福音」は関係における真理であり、パウロはパウロなりに「律法(行い)」の否定を媒介にして把握をした真理を、エピゴーネン(追従者)が「何もしなくても良い」として、金持ちに安堵を与えたことに、ヤコブはその現状と闘っているにすぎない。このテキストを現代の教会で読むとしたら、「奉仕」は自己実現の場ではなく、自分本位の捨て場だとして読んだら良い。「行いを伴う信仰」とは、その場を自覚することであろう。
⑧「言葉に自動制御を」 3:1-12
ヤコブは「教師」を戒める。本人の自戒であろうか。永六輔『親と子』(岩波新書)の「父親にさせていただいたのだ」「子の恩というものがあります」。なかなかコントロールが利いたことばだ。
⑨「へりくだり」 4:1-10
「へりくだり」(10)。この一語は、聖書の全歴史に出会わせる。聖書箇所をあげておこう。民数記12:3、イザヤ57:15、箴言16:19、エゼキエル21:31、マタイ11:29・21:11、ルカ18:9、フィリ2:6。
⑩「限られた命」 4:13-17
神の出来事がこの世の出来事と”軋(きし)み”を起こしつつ形を成してゆくのが教会である。初代教会に富者と貧者が共存していたのは何故か。世の現実の反映といえばそれまでだが、この箇所ではかなりの商人がいたようである。一年間を金儲けの時としてしかみていない。何と侘しいことか。限られた命への謙虚さがない。「主の御心であれば」(15)という自己相対化の視点を自覚したい。仕事の完成度は誰でも気になるが、未完成の部分を神に委ねる謙虚さはヤコブが富者から逆説として受け取った点であろう。
⑪「預言者の後を追う」5:1-6
ここの箇所は預言者から来ている(イザヤ13:6・15:3・50:9、エゼキエル30:2、ヨブ13)。未払いの賃金の叫び(エレミヤ22:13、レビ19:13、マラキ3:5)。初期キリスト教は現実路線が多い。その中でヤコブは預言者の精神を継承する。それは単なる理想主義ではない。そこには恐ろしいまでの現実への対処と忍耐がある。
⑫「実りを待つ」5:7-11
「忍耐」はヤコブの鍵語(キーワード)。
終末論には三つのタイプがある。
A:「切迫型終末論」初期パウロに強い。今もうすぐ世の終わりだ。
B:「実現した終末論」ヨハネ福音書などの立場。今が決断の時。実存的な生き方が強調される。
C:「歴史的終末論」世の終わりまでの時間的経過を認識する。
「やがて時はきたらん」讃美歌453。農夫の譬えが意味を持つ。
「大地の尊い実りを待つのです」(7)。いい言葉だ。創造論のおおらかさがベースにある。ヤコブの立場だ。
(この講解説教では3:13-18、4:11-12、5:13-19は飛ばしている)

弱者に対する聖書の視点
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(2009 神戸聖書セミナー)
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