「福音と世界」2007年12月号(新教出版社)
<特集2 再び戦争責任を問う>所収
(日本基督教団教師、明治学院教会牧師、健作さん74歳)
(サイト記)全文でなく健作さん発題を抜粋。上掲画像は、2005年2月、岩井・山里(沖縄教区総会議長)・北村。神奈川教区での集会の合間、於湘南海岸。

司会
戒能信生(日本基督教団東駒形教会牧師)
発題
岩井健作(日本基督教団牧師・明治学院教会牧師)
木邨健三(日本カトリック正義と平和協議会専門委員)
内藤達朗(日本ホーリネス教団委員長、狭山教会牧師)
(サイト記)日本基督教団「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」(外部リンク)
2007年8月3日、午後7時から日本キリスト教会館(東京都新宿区)で、はなしあいプログラム「このとき、歴史に向き合う- 戦争責任告白をどう生きるか」(日本クリスチャン・アカデミー関東活動センター主催)が行われた。二号に渡り、同対話集会を誌上載録する。
(司会:戒能信生)
日本クリスチャン・アカデミー関東活動センターの「話しあいプログラム」において、教会の戦争責任の問題を取り上げるのは、最近では、昨年3月の「戦後60年と日本の教会」に続いて二回目です。このようなテーマを設定しましたのには、いくつかの事情と理由があります。まずはこの国の政治状況です。昨年の教育基本法の改訂、そして憲法改定が、3年先の政治日程にのぼるという状況が端的に示しておりますように、戦後民主主義の諸価値が根こそぎ否定されていく、誰かのキャッチフレーズで言えば、戦後レジームの見直しです。まさに、歴史に向き合うことが問われている政治状況です。
もうひとつは、それに対する教会の状況です。今から40年余前、1967年3月に日本基督教団の戦争責任告白は公にされました。以来、カトリック教会においても、日本ホーリネス教団においても、この国のほとんどの教派が、自らの戦争責任を明確にし、さらにその告白の視点に立って、それぞれの教会の宣教の使命を明らかにしてきました。ところがこの間、それぞれの教会、それぞれの教派が混乱をしているように見えます。これはそれぞれの教派の戦争責任告白が破棄・変更されたということではなく、戦争責任告白が忘れ去られている、あるいは、重んじられないという状況があることです。ありていに申しますと、私の属しております日本基督教団では、教団議長が、戦争責任告白以降の40年の歩みを「荒野の40年」と表現して、その間、伝道・教勢が振るわなかった、懺悔するということを表明しているという具合です。あるいは、木邨さんからお話があるかもしれませんけれども、現在のローマ教皇ですが、彼はかつて教皇庁において、いわゆる解放の神学等を徹底して取り締まる側の辣腕を振るった、あのラッツィンガー司教が、今やローマ教皇になってしまう。70年代、80年代のそれぞれの教会の状況から、現在は大きく様変わりしているように見えます。
これは、この国の教会をめぐる状況だけではありません。聞くところによると、韓国の教会やアジアの各地、アメリカをはじめ世界の教会においても、同じような傾向が起こっていると指摘されています。これは使い古された表現になりますけれども、リベラリズムの全体的な後退とファンダメンタリズム、原理主義、あるいは「ニュ-コンサティブ(ネオ・コン)」の台頭といった傾向が、世界の教会を席巻しているということも出来るかと思います。具体的には、それぞれの教会において、それぞれの主張は、伝道主義、エヴァンジェリズムの主張、教会の社会的責任の後退、という仕方で表出化しているのではないかと私は見ています。
今日は、日本基督教団の戦争責任告白を具体的に起草・作成されたおひとりである岩井健作さん、日本カトリック正義と平和協議会(以下「正平協」)で長く靖国問題・社会問題に取り組んでこられた木邨健三さん、そして、日本ホーリネス教団の、現在、委員長であります内藤達朗さんに来ていただきまして、それぞれの教会、教派の戦争責任告白が生み出されていった経緯、その後のあゆみ、現代の課題についてご紹介をいただきたいと願っております。
それでは早速、岩井さん、木邨さん、内藤さんと、順番にお話をいただきたいと思います。よろしくお願いします。
(発題:岩井健作)
はじめに、みなさまのお手元にあります資料ですが、私からの資料が二つあります。ひとつは、「福音と世界」2007年8月号の抜き刷り「体感としての右傾化とキリスト教」です。同じ戦責の間で、私と一緒に兵庫教区で仕事をしていた柴田信也さんが書いた論文も読んでいただきたい。もうひとつの資料は「日本キリスト教団神奈川教区第18回定期総会」と題されています。この二つを使わせていただいて、お話をさせていただきます
今日、カトリックとホーリネスの先生方と戦責を巡って同席させていただくというのは感無量です。それぞれの教団の戦責ということについて、出来るだけ発表するということが趣旨で、今後パネルのようなことが行われていく足がかりになるような集会であると私は理解しております。
戦責告白の起草に際して
最初に、戒能さんから戦責告白の本文の起草に関わったとご紹介いただきましたが、私が関わったのは前文の起草です。本文は鈴木正久さんと、おそらく大塩清之助さんが関わったと思います。あの本文を見た時に、私は多少違和感を感じたのですが、その問題はずっと後に課題として残りました。その戦責告白を出した経緯は、「福音と世界」の16ページで少し触れております。
その前の段落に書かれていることですが、特にその前半部分は、日本基督教団の路線変更について触れています。戦後「神の国300万人救霊運動」というのが、行き詰まったわけですね。これはGHQの後押しで、戦争の責任をキリスト教は免責をされて、キリスト教は与党となってこの国をキリスト教化するんだと一生懸命やるわけですが、行き詰まります。そこで、世の中のことを一緒にやっていかなくてはダメだということで、労働者に伝道するなど、世に「仕える」から世と「共に生きる」教会へと、教団が路線を変えたのです。私たちが教職になったのはその頃です。段落の後半に「このように『世に仕える』と言えば言うほど、気になるのが、第二次大戦下に於ける『キリスト教』の戦争協力であった」「その責任を明確にしない限り歴史認識のないゆえに『世に仕える』ことは実体を持たないことになるということを痛感した」とあります。
つまり、戦争責任のことを教団としてやってもらわないと、僕らは現場で伝道は出来ない、日本基督教団の教職にはなりましたが、このような教団で、日本の世に仕えることが出来るのかと痛切に感じたのです。私がいた岩国は米軍基地があり、米軍の犯罪がどんどん起こっている現場でした。前任者の高倉徹牧師はその問題に一生懸命取組んでおられた方です。その中で、どうしても、教団で戦争責任ということに取り組んでもらわなければいけないと考えていました。
そういう思いが強い時に、1966年秋、第17回教職講習会が開かれ、私も夜行列車に乗って参加しました。私たち若手の教職が集まり、教団にものを言うということはとても出来ないが、なんとかひとつ言いたいと、一晩ずっと考えました。講習会が始まって、私は、教団として戦争責任というものに取り組まない限り、若手がどうやって伝道していいのかわからないということを、一生懸命言いました。
そうしたら、大塩清之助、内藤協(かのう)、渡辺泉などが共鳴をしてくれました。鈴木正久氏は、当時講習会の校長で、あなたたち若手の言うことは受けとめる、と言われました。その背景として、やはり終戦後、鈴木先生や浅野順一先生などが日本基督教団やその幹部がきちんと責任を取らなければならない、少なくとも常議員の交代が必要であると言うのですが、結局それもうやむやになるという経緯がありました。鈴木先生はそういうものをずっと心に秘めていたところへ、若手からそのようなことを言われ、なんとかしたいと思われていたのです。そこで、本文は東京で作り、関西方面の人たちが総会に出す議案の前文を作ってくれというので、私や渡辺泉さん等が前文を作りました。1966年の秋の総会、第17回教団総会ですけれども、建議者は渡辺泉さん、私は同意議員のひとりとして名を連ね、戦責告白が総会で決議されました。それで、常議員会付託となりました。戦責告白に、いわば鈴木正久氏のスタンスに反対をする委員が多くいましたので、五人委員会というものを作って、調停をしたという経緯もあります。
戦責告白40年を覚えて
次の資料、神奈川教区定期総会資料をごらんください。これは2007年の6月3日に開かれた総会で提出された議案第一号「『第二次大戦下における日本基督教団の戦争責任についての告白』40年を覚える決議の件」です。提案者は関田寛雄さんです。決議が可能になったのは、先生の篤実な人格によるところの大きいものでした。
主文によりますと、「日本基督教団は、1967年3月26日復活主日に『第二次世界大戦下における日本基督教団の戦争責任についての告白』(以下「戦責告白」という)を教団議長名で公表して40年を迎えました。戦責告白は、今から見ればさまざまな限界をもつものではありますが、私たちの教団が、公式に初めて、教団成立やそれに続く戦時下に犯したあやまちを自覚し、戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めた罪を懺悔し、主にアジアの諸教会徒に赦しを請い願ったものであり、私たち教団の歩みにとって欠くべからざるものであります。私たち神奈川教区総会は、本年が戦争責任告白40年であることを覚えて、以下のとおり決議します」とあります。
最初に戒能先生が言及されましたが、現在の教団議長は「荒野の40年」という総括を出し、戦責告白から40年は伝道の怠慢、強勢の不振、マイナスの懺悔をすべき40年であると総会で発表しました。これに対して、神奈川教区は、そうではないと言っているのです。この中で重要な点が二つあります。教区議案に「さまざまな限界を持つものではありますが」という箇所があります。この「限界」の意味は認めつつも、この「限界」の意味は二つあります。ひとつは、日本基督教団は、この戦責告白に対して、一致して取り組むということが出来なかったという限界です。これは手続き等、さまざまな問題があると思います。もうひとつは、この告白がキリスト教の福音自体については立ち入っていないことです。つまり、戦争を否定し、非暴力と平和を願っていくのであれば、福音理解そのものが変わっていかなくてはならない。このことは、例えば、解放の神学などでも言われていることですが、そのような点まで、この戦責告白は立ち入っていません。見張りの役まで出来なかった、いわば神学的な限界です。
このようにさまざまな限界を認めつつも、以下の決議は非常に重要です。「憲法第九条の改訂」「日の丸、君が代の強制」「日本の第二の軍事基地県でもある神奈川で、厚木・座間・横須賀等の一切の軍事基地と、その施設に対して」反対するという箇所があります。この3点は、先ほど戒能さんが指摘された、戦後レジームを解消するという安倍首相、つまり、自民党保守本流ではなく、さらに右翼のどうしてもこれらのプランを実現したいという人たちの動きを阻止しなければならないという表明です。
日の丸、君が代も、人間の良心の自由、信教の自由という問題を侵しています。米軍再編というのは、武力で世界を統一していくという世界戦略のバックアップ、いわばグローバリゼーションという経済の普遍化と、貧困と格差を下のレベルで世界中で合わせようとする政策の最たる現れです。これは沖縄問題という見方では捉えきれません。戦後ゼロ年という歴史意識の違いを沖縄から突きつけられていますけれども、神奈川では神奈川の基地に反対していかないと、沖縄と連帯することは出来ないのです。
それから「在日大韓キリスト教会、日本ホーリネス教団との交わりを一層深めていきます」とあります。確かに、日本基督教団は、ホーリネスに対して謝罪をしています。それ以後、各地方ではホーリネス教団との連帯が随分図られていますが、教団として、その謝罪を実質化することが出来ているのでしょうか。在日大韓キリスト教会とは宣教協力を結んでおりますけれども、実際はどうでしょうか。つまり、教団組織レベルの問題だけではなく、教会の日常的な信徒の生活レベルでの実質化です。神奈川のように在日人口の多いところですら、教会と教会の連帯がうまく機能しているとは言えません。それから「戦責告白と今日の教会の課題について学び合い」という箇所、これは、戦争のもたらす人権の侵害、差別の構造、命の尊厳、環境の保存等に対して、非暴力という抵抗と平和運動の方法というものがありますけれども、こうしたことをもっと学び合わなければならない。現に、沖縄の辺野古での戦いというのは、徹底的に非暴力を貫いています。戦責告白40年を記念する集会をもとう、可能であれば、日本基督教団で集会をやってもらおうという声もあります。するはずはありませんけどね。するはずがないのであれば、あちこちでやっていったらいいだろうと思います。日本基督教団というのは、決議機関の総会だけではありません。ひとりひとりが教団のメンバーなのですから、それでやっていこうという決意を新たにした、これが神奈川教区の決議です。
戦責告白から40年経って、一地方の教区では、こういう決議をしています。今日ここにも、ご関係の方が何人かいらっしゃいますが、本当に、薄氷を踏む思いでこの議案を準備されています。今の日本基督教団の状況では、これに賛成しないという人は数多くいるでしょうが、なんとか説得力を持って、131名中102名が賛成した。あるいは29名の方が賛成されなかったという見方もありますが、教会としてはいろんな意見があっていいという現れでしょう。このような決議ができるのは、日本基督教団16教区のうち、半分くらいは可能だと私は信じています。教勢や財政力の低下は、教会にとっては大変苦しいことです。しかし、その苦しさを凌いで、戦責告白の赦しを担っていかなくてはと考えている人が、日本基督教団の信徒には、どっこいたくさんいるということです。
戦責告白と沖縄
この「限界を持っていますが」というくだりですが、もう少し丁寧にやっていれば、少しは教団に亀裂を残さずにすんだのではないか、という思いはあります。鈴木正久議長が拙速にやった、教団で決議してしまう前に各教会に返すよう指示すればよかったのではないかという声はよく聞かれますが、この限界は、40年経ても埋まっていない、克服すべき課題です。もう一方の、福音理解に立ち入るという点ですが、これは解放の神学が言うように、聖書学習運動なのです。少なくとも、新約聖書というものを、ある信仰告白から解釈基準として理解して行くということではなく、聖書学が提示した歴史文書として、一つ一つ丁寧に扱って、神の語りかけを聞いていくという方法論を、教会がきちんと取っていかないと、キリスト教は今の世界の状況で闘えなくなるだろうと思います。私はこのことはとても大切だと思います。戦責告白が蒔いた種が、現在、そのような問題提起となって、まあ、日本のキリスト教とは言いませんが、少なくとも日本基督教団の関わりの中では、聖書をどう読むか、ということが大きな課題と宿題になってきています。そういう広がりを持ってこそ、戦責告白は意味を持ちます。あの当時、鈴木正久先生も、問題を提起した私たちも、その点が全く欠落していました。かつて講習会の席上、沖縄から来られた山里勝一さんがその場で指摘されました。アジアの諸民族の方たちと、そして、神に対して戦争をした懺悔をすると言いましたら、「沖縄はどうなるのでしょうか、沖縄と本土との歴史理解、沖縄に対して本土がなした罪責等、全く意識を欠いて戦責告白が出るということはどういうことなのか」とおっしゃったのです。鈴木先生はたいへん俊敏な方ですから、沖縄キリスト教団との研究会をしようと、すぐに研究会を立ち上げました。それが発展して、日本基督教団と沖縄キリスト教団は1969年に合同しましたが、それはあまりにも拙速な、神学的な合同でした。つまり、国家が分断されても教会は神の名において一致するという、ドイツの教会の例に倣ったのでしょうが、実際は神学が現実に優先し、神学という一つの関連領域が現実を解釈し整理したに過ぎません。このことは後に「沖縄キリスト教団と日本基督教団との合同のとらえなおし」という問題となって起こります。日本基督教団では、この問題を長いことかかって扱い、私も何期かの委員長をさせていただきましたが、とうとう34期総会をもって、切り捨てと言いますか、このことはもう論じないということになり、沖縄は日本基督教団との関係を切っています。もちろん、個人でそれぞれ関係を持っていらっしゃる方もありますし、我々本土側の教会は、教会員レベルの運動で「沖縄の基地撤去を求め、日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同をすすめる連絡会」を立ち上げています。現在、500人くらいの教職が個人で参加していますが、なんとか維持を図っています。そういう意味で、戦責告白は教団という組織的な面では後退しています。その中でよく頑張っている教区の一つとして、神奈川教区が決議をしましたが、決議をすればいいというものではありません。その実質化というのは、一人ひとりの個人が、教会に属するメンバーとして責任を負っていくことです。
つまり戦責告白というのは、告白をすればそれで終わりではなく、その後どのように、告白を担う主体として歴史に関わり、過去の歴史の罪責を告白しながら、現在の問題として担っていくかということが大事なのです。日本基督教団の場合は、それを一生懸命に担っている多くの兄弟姉妹がいるという、このご報告をもって私の発題を終わらせていただきます。
(発題:岩井健作)







