私が育てられたいくつかの教会 − 近代日本とキリスト教(2007 立証・講演)

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2007.10.4 神奈川教区・湘北地区共催講演会

第二部 講演会
私が育てられたいくつかの教会 − 近代日本とキリスト教 −

明治学院教会牧師 岩井健作

初めに

 テーマは講師に任せるということなので、長い間考えまして、自分の証を語るのが一番だということで「私が育てられたいくつかの教会」という題にいたしました。この証というのは私が何をしたかということではなく、私という存在がどういう人に支えられてきたか、存在する私そのものが証であるようなことを語りたい、という大変難しいテーマです。

 育てられるということは、私が牧師としてということもありますし、信徒としてという意味もございます。教会で育てられるという、このことは私だけではなく、ここにご参加なさっている皆さん一人ひとりが教会で育てられていると思います。ですから、ご自分が育てられたということを心の中で思い起こしていただければ、私の話の一端は通ずると思います。私がそれぞれの教会で育てられたように、どの教会も牧師を育てているのです。いろいろご苦労があると思いますが、「私の教会も牧師を育てているのだ」という思いをもって、希望をもっていただくことが今日の講演の狙いです。

私のキリスト教のルーツとその背景

 私の信仰のルーツは群馬県のキリスト教です。188年、明治20年にプロテスタントの信徒数は東京が5000です。神奈川が1000、大阪が1000、兵庫1000、この時点で群馬県のキリストの数は985と出ています。なぜか、二つ理由があります。

 1つは新島襄があの苦節10年といわれる海外の学びから帰ってきて、安中に来て伝道したからです。新島襄は安中藩の下級武士の子でありましたが、国の前途を憂い、いろいろ曲折を経て函館から国外に脱出します。目的は日本を軍事・武力によって強い国にしなければ外国と対抗できないので、軍事技術を学びに行くということでした。

 しかし彼は船旅の中で陸の思想から洋上の思想へ変わっていきます。そして聖書を手にしてボストンに着きます。ハーディーという篤信なキリスト教徒に出会って、最高のキリスト教の教育を受けて日本に帰ってまいります。彼の志は、大学を建てキリスト教の教育で養われた人格で国を興すというものでした。彼は47歳にして大磯で倒れます。しかし彼の志は今日の同志社大学となって実を結びました。

 近代キリスト教の出来事の中でたくさんの驚くべき事がありますが、私は新島襄というあの人格はまさに驚異的なことであると思います。この人は本当に不思議な人です。人格的な力、まさにそれは神の業の現れ、天地を創りたもう救い主が新島襄をうごかして、人格的な感化で不思議な出会いを作り、イエスの出来事の再現を近代日本の中に植えつけます。

 彼は帰国後安中に伝道しました。群馬県は養蚕農家の地域でした。当時養蚕をやっている人々には新しい倫理が求められていました。マックス・ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という有名な本を書いています。仕事というものは神からの召命であり神様に応えるという意味で仕事をしていく、これが資本主義の精神を生むという論理ですけれども、そういう「品格」を求めていたのです。

 安中教会は1878年、明治11年に設立されます。海老名弾正が初代の牧師です。その後、柏木義円が39年間牧会をします。柏本義円は「上毛教会月報」という機関紙によって非戦論を展開して日露戦争に反対した著名な牧師です。

 安中の近郊の小さな村に養蚕業をやっていた「松井」という家があります。先代はやはり酒色に溺れて家が傾いてしまっていましたが、松井十蔵は海老名に触れます。そして安中教会に出合って1883年、明治16年に洗礼を受けます。並々ならぬ努力で養蚕、畜産に励み、また村長として村の経世に努めます。妻は裁縫塾を家で行い、家庭を関放して日曜学校を行います。彼の信仰生活は大きな感化を及ぼして、村の人がたくさんキリスト教に入ります。孫に当たる「新藤まき江」もその一人です。後に岩井文男と結婚いたします。

 日本最初の製糸工場で有名な富岡に1884年、明治17年に「甘楽教会」が設立されます。近郊で養蚕農業を営んでいた岩井角太郎は大酒飲みで酒をやめたかったけれどもなかなかやめられなかった。しかしキリスト教に入信して酒をやめることができ、家業を興しました。息子が2人いました。長男に家督を継がせ、次男には「お前は大学を出してやるので敬愛する新島先生の同志社に行け」ということで、中学のときに洗礼を受けた文男は同志社に入ります。しかし憲法学者の中島の感化で銀行員を辞めて、当時起こされました日本労働者ミッションというセツルメント活動をするグループのメンバーとして、農民のあいだに入って伝道活動を始めます。その頃、賀川豊彦に出会い、賀川の招きで岐阜へ行って伝道のため農民福音学校をおこないます。私がなぜ岐阜県の生まれになっているか、そこで生まれたわけです。

 その農民福音学校の生徒のなかに、兼松澤一という熱心なお百姓の青年がいました。山野、山林を10年掛かって開墾します。戦争が終わりまして、兼松澤一が文男に「どうしても岐阜の郷里に教会を建てたい。開墾した土地の三千坪を寄贈する」という。そしてそこに設立された教会が「坂祝教会」という小さな教会です。現在の中濃教会です。

 開拓自給農村伝道です。もちろん電気・水道・ガスはございません。子どもを含めて家ぐるみで農業をやって生活を立てるという活動です。

 その教会の設立のときに親父から洗礼を受けたのが、次男の私です。中学3年の時にふとした弾みから献身者キャンプというものに行って「僕は将来、牧師になる」という決心を宣言いたしました。以来、私はずっとこの道に導かれております。

 同志社の神学部で学びました。初めは農村伝道を志したのです。しかし都市教会へ行ってみまして、実に活力があります。聖歌隊は盛んに歌っていますし、日曜学校には人が集まります。都市の教会がもし変わっていけば、日本の教会は変わっていくという思いを抱きました。

赴任

 学校を出てから広島の流川教会に赴任しました。ここは旧メソジストの伝統の教会です。その後、呉山手教会、旧日基の教会です。5年後、招きを受けて岩国教会へ、これは旧日本基督教会とメソジスト教会が合同した教会です。そこで13年。それから神戸教会の招きを受けて24年間牧会いたしました。

 私の知っている教団というのは、戦後・賀川豊彦を中心とした新日本建設キリスト運動が行き詰って、世に仕える教会として職域や地域に出て行って活動するのが盛んになった時代で、私の牧会初期の頃でした。

 教団・教区の委員も本当にたくさんさせていただきました。思い出深い教団の委員の中で「婦人専門委員」というのがあります。まだ今のような自主活動団体の婦人会連合になる前です。そうそうたる先生がおられまして鍛えられました。ちょうどその頃、婦人委員会のテーマが「私は地域の証し人」ということで一緒に考えていきました。

 その他、沖縄キリスト教団と合同して、その合同が非常に不十分だったので「合同のとらえなおし」ということが教団で言われた時の、一番初めの「合同とらえなおし特設委員会」の委員長をさせていただき、たくさんのことを学ばせていただきました。

与えられた宣教のテーマ

 広島でのテーマは原爆・核問題・被爆者の問題です。原爆被爆者の老人ホーム「清鈴園」の建設という西中国教区での取り組みの一員をさせていただきました。その頃、呉には、朝鮮戦争のあと海上自衛隊ができて、すっかり海軍の様相を回復していました。軍港と教会、自衛隊員にどのようにして教会は接したらいいのか、そういう課題を抱えました。岩国に移ったのが1965(昭和40)年です。ちょうどベトナム戦争が激しくなる頃で、岩国からベトナムに軍隊が出撃していきました。ペトナム戦争に反対する市民の運動が起こされ大きな学びを受けました。

 神戸は、キリスト教と文化という大きなテーマを持った街です。教会員の中に小磯良平さんという画家がおられました。「戦争中どのように画家はすごしたか」というような大きなテーマを小磯さんは抱えていらっしゃいました。

 そして出くわしたのが阪神淡路大震災です。これは本当に死に物狂いで取り組みました。この時、私が一番苦労したのは、中央と地方の現場との格差、といいますか、温度差です。教団ともそうでした。常議員会に現場のことがわかっていただけないのです。常議員の一人でありながら、本当に現場のことを、声をからして訴えざるを得なかったという経験を持ちました。こういう課題はいまだにずっと抱え込んでおります。これからもそうした課題をごに考えていきたいと思います。

格差社会

 農村伝道の中で、生活のためにはサツマイモを作るわけです。草取り、大変なんですね。炎天下の中で、にわか百姓ですから、親父もそんなに手際よくできないのです。朝の4時頃から起きて草取りです。向こうの方まで草が取れて、フッと取れたなと思うと午前中が終わりです。立ち上がって見ますと、ズーッと向こうまで畑があるのです。そうやって作ったサツマイモ、3.75キログラム(一貫目)15円です。農産物が安くてどうなってるんだと社会科の教師に疑問をぶつけたのです。そうしたら非常に丁寧に社会の経済の二重構造、日のあたる場所と、日の当たらない場所、そして、工業生産の中には景気不景気があって、労働者の首を切ったりして調整をしているという。その首を切られた労働者は農村に帰って食っていくわけです。農業というのは労働の調整場所になっている。だから農業が一番儲かるようでは困るわけで、農産物はそのように低く抑えられていることを丁寧に説明してくれました。農民はほとんど無視に等しいかたちで低いところでの生活に甘んじている。格差社会もいいところですね。

 農村伝道というのはそのように貧しさを生み出す農業の構造、社会の構造、政治の構造、経済の構造を良く知って、生き生きとみんなが生きられるように奉仕をしていくのが教会なのだと思います。ところが教会も格差社会です。みんな都市の教会へ出て、なかなか農村の教会の牧師になる人はおりません。ですから、私はサツマイモに貧しさの視点とか社会の構造とか、それに取り組むべき教会のことを教えられました。

各教会の伝統

 私が赴任した教会はいろいろな伝統がある合同教会です。初めて行った教会はメソジストの教会です。伝道師で行きまして、聖餐式の時です。メソジストは恵みの座というのがあって、そこへ出てきて聖餐を受けるのです。僕はそういう教会で育ったことがないから、よくわからないので、主任の先生にどういう風にするのですかと聞いたら、「見とったらわかる」というのです。聖餐式が始まりました。「これは我が体なり」とかいって、合図しますから「これはパンを持って行くのだな」と思ってさっと持っていって配るのです。それで、「これは我が血潮なり」というので「あ、これはぶどう酒だな」と思って配るのです。なるほどメソジスト教会はそういう聖餐式をやるのだということを知りました。

 呉山手教会というのは日基の教会の伝統です。牧師になって初めて洗礼式をやりました。こちらも感激です。洗礼式で「父と子と聖霊とのみ名によって授ける」といって一所懸命やったんです。終わりましたら、その教会の一番の長老さんが「あなたの受けた洗礼は水を1回かける洗礼だったんだな。わたしのところでは父・子・聖霊と、3回水をかけてきましたよ」僕はそういうことを知りませんでした。教会の伝統とはそのくらい違うわけです。なるほど、だから自分のやっていることが絶対的だなどと思ってはいけないと思いました。

 神戸教会に移った時、役員から「先生、先生の信徒籍は持ってきたか」というから「そんなのは知らんよ。牧師になった時に信徒籍というのはなくなった」といいましたら、この教会は牧師も信徒なのだから、信徒籍が無くてはいけないと言うのです。組合教会では牧師はみんな信徒籍があるのです。そういう伝統なのです。教団の教規ではそうではないのです。教職は信徒ではないのです。でもいまだに組合教会の会衆派の伝統ではそうなのです。

 教団の信仰職制委員数をしていた時、教師の信徒籍はいかなるものかという問いが信仰職制委員会に問い合わせがあって私が担当の係りだったのですが、答えようが無いのです。諸伝統にゆだねるという、結局、教団の中では諸伝統ということでいろんなことをやっていかなくてはならない。これは非常に大事なことです。

 教団成立時には800くらいの教会、今1700の教会があり、教団成立後にできた教会には、伝統などあまり関係ないでしょうが、いろんな教会があるということです。いろんな神学的理解があるということです。合同教会です。このことは大事にしなくてはいけないと思います。教憲教規という規則にあてはまらないものは切るということが最近起こっておりますけれども、そうであってはならない。各個教会には具体的な根があって教会が成り立っているということです。それが大事なことです。

一粒の麦、地に落ちても

 30代後半から40代になる頃、自分でも牧会に自信を持っていました。ある日、教会員の方から「先生は牧師の息子に育ち、同じような環境の奥さんと一緒になっている。だから、伝道が下手で、それが先生の一番駄目なところだ」と言われました。「日本の家族制度の問題、封建制、仏教の檀家のしがらみ、がんじがらめに人間をとらえているもの、先生はそこから自由になることの労苦がわからない」と言われました。一生懸命やっていたものですから、「俺はほんとうに駄目なんだ」とがっくりしました。

 そのときに心の中に響いてきた聖書のことばは「一粒の麦、地に落ちても死なずば一粒の麦のまま。死なば多くの実を結ぶべし」というヨハネ伝の言葉なのですが、「地に落ちても」なんです。僕は地に落ちただけなのだ。牧師になったということはたいしたことではないのだ。ほんとうに相手のために死んではおらん。死ぬということは相手のために自己完結性を破るということなのでしょうか。ローマ書を読んでいれば、古い自分がキリストとともに十字架につけられて、罪に支配される体が滅ぼされるのだとよくわかっている。神学的には頭ではよくわかっている。

 しかしそういうことがなかなかわからない地位に立ってしまった。それを親切に丁寧に信頼関係の中で私に言ってくださった信徒がいたということ。その方はもう90歳になられましたが、今でも豊かな交わりを持っています。だから、キリスト者で四代目であることは、そんなこと、どうっちゅうことはないんです。日々死ぬことができるかということです。

神のユーモア

 私のおりました教会で、非常に立派な信徒の方がおられました。女性ですが、社会的地位があり、財力を持っておられた。非常に賢い方で、指導力があるという方でした。その方が教会に大変奉仕をなさる。しかしそれ以上に人を蹟かせる。前任の先生もそれをなんとかあの人にわかってほしいと思っておられた。これが己に死ぬということなのですが、頭でわかっているが本当に難しいことです。だからほんとうにその方に前任者も苦労されたんです。「これだけは気掛かりだ。若い君が苦労すると思うが、よろしく頼む」と頼んでいかれた。こっちも若いから、「十字架について罪に死ななくては駄目だ」と一生懸命説教する訳ですね。だからみなさんはそれがあの方に言っているというのがよくわかるのです。すると、その方は「先生、今日はいいお説教だったわよ」とか言われるのです。とても歯が立たない。教会のリーダーシップを持っているわけですから、苫労しました。

 ある日、礼拝が終わって玄関に立っていましたら、ある年配の婦人が「先生、お風邪でもおひきになったのですか」「いいえ、風邪はひいていませんけれど……」「私のところにおいしいお菓子があるのにどうして匂わなかったのでしょうね」と言って帰っていかれました。はっと気がつきました。そして時間を作ってその方をお訪ねしました。お茶を点てて、おいしいお菓子を出してくださり、よもやま話をしていましたが、つい気を許して牧師の愚痴を語りました。「お疲れになるでしょうね」と言って笑って間いてくださってから、僕の顔をしげしげと見て一言だけ「お役目ですから」とニコッとお笑いになりました。

 福音とは何であるか、十字架とは何であるか、己に死ぬとは何であるかを伝えるのが「お役目」なのです。伝えるのが牧師の仕事であること。もう言葉での伝達は超えています。北風を吹かせることはいくらでもできるが、その方がポカポカと衣を脱ぐまで「待ち」の牧会をしなくてはならない。

 教会は、言葉でカリカリと一生懸命やっている牧師と、ニコニコ笑って「お役目ですから」と言っておられる方が一緒にいるということ、これは神のユーモアだと思いました。

 教会とはそういうものなのだと。そういう方によって、私は養われ、教われたのです。そういう方が、どこの教会にもおられます。町の教会へ来ましてから、僕がちょっと疲れたような顔をしていますと、「今日は一杯やろうか」と誘ってくださる方があって行くと、焼き鳥屋で飲んで「あんたも大変やな」と、それしかおっしゃらないのです。でもね、大変なことは当たり前なのです。教会というところは、大変な場所でなくちゃどうしようもない。教会というところは十字架を負っていく場所なのですから。そういう形で、十字架を負いつつ、それを暖めるユーモアの復活というものを持ちながら育っていくのです。教会とは豊かなところです。

結び

 本当につまらない牧師が、今日ここに立たせていただいているのは、まさに新島襄が存在したからであって、肉親ですが、岩井文男という人物があったからこそ。そして押したり引っぱったりの多くの教会の方々に支えられてきて今日あるということを感謝したいと思います。

岩井先生を囲んで会場教会の皆さま


《質疑応答》
Q: 私は信仰生活45年になります。牧師先生か何代か替わられ、今は自分の娘と同い歳の先生をお迎えしています。先生がこの教会にとって、より良い先生になってほしいという老婆心からものを申し上げたことがあります。すると猛烈に反撥されました。先生が歳をとって気がつかれるまで待つのがよいか、反撥されてもへこたれずにお願いしていくのがいいのか、おききしたいです。

A: どういう方法がいいというより、真剣勝負でいくことが大事です。言った方がよければ忍耐の限りを尽くして言った方がいいし。時には教会を替わる方も有りますよね。最後はどうしてもあの先生にお葬式をしてもらいたくない。だけどその教会に籍があるなんていう問題もあります。たくさんの教会があります。でも解決の筋道なんてないと思います。その都度困惑して、その都度ぶつかっていく。ただ基本的なことは神様が知っていてくださるということだと思います。
 正直言って私、神奈川教区に来て5年になりますけれども、こういういいかげんな年になりましたら信徒の方から(他所の教会ですよ)「うちの牧師困るんです」と相談受けることがあるのです。でも他所から口出しすることは出来ません。やはり自分の教会の牧師は与えられた牧師として、育てるという、僕らもそうやって育てられて来たのです。本当に申し訳ないとの念は尽きません。去った方もありますし、本当に面と向かって厳しいことを言って下さった方もあります。どうぞ教会で工夫してください。
 祈れば道が開かれるし、与えられると思います。そういう信徒によって牧師が育てられていくのです。一度言ってダメなら二度言う、三度言う。しつっこく言うのがいいかもしれないし、そう言う勇気がない、こちらがぼろぽろになってしまうというのなら、違う方法を考えたらいいと思います。色々な形があります。
そういう方がいらっしゃるということをわたしも覚えて祈ります。

2007年10月4日(木)於翠ケ丘教会
日本基督教団 神奈川教区・湘北地区共催講演会 出席状況
横浜地区 11教会・34名
川崎・鶴見地区 9教会・22名
東湘南地区 9教会・12名 
西湘南地区 6教会・13名
湘北地区 15教会・59名
合計 50教会・140名

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