被災地の教会を訪ねて − 新潟中越地震 2004.10.23(2004 被災地)

2004.12.1執筆

(前神戸教会牧師・前川和教会代務者)健作さん 71歳

 書きたいことはいっぱいあるのに何ヶ月もサボってしまい、ホームページを開けて見られた方にはほんとうに申し訳ないと思っています。

 先週、火曜日、高崎で日本基督教団関東教区群馬地区大会で「地震と教会」をテーマに「命の道を生きる」という題の講演をさせて戴きました。これは、私の阪神淡路大震災の経験をお話するということで、もう夏前からの計画でお引き受けしていたことでした。

 そうしたら10月23日「新潟中越地震」が起きてしまいました。急遽、お話は中越との関連をも含めての内容にならざるを得ませんでした。私を招いて下さった群馬の牧師たちはすぐに救援活動に入ったわけですが、私にも中越を訪問・問安しておくようにと講演の前の日一日をかけて、自動車を出して同道させて下さいました。

 その日の天気予報は全国が高気圧に覆われ晴れとのことでしたが、県境三国峠を過ぎると空はどんより曇り、霧雨がフロントを洗い始めました。季節が進むとこれは雪になるのだそうです。


 初めに「川口町田麦山地区」を尋ねました。聴きしにまさる破壊状況でした。避難所の田麦山小学校を尋ねました。出入りする人々の疲労が色濃く感じられました。校庭では仮設の杭打ちが始まっていました。

 阪神の時は、仮設は遠くの地で、籤引き入所、地域の生活の破壊に輪を掛けた処置でしたが、地域が一つにという、その教訓は活かされているようでした。

 大都市と地方の違いもあると思いました。川口町中心部では瓦礫と化した住宅にその時まで使っていた、日用品、本、ノート、鞄、一切が山済みになっているのを覗いていたら、たまたま来ていた、そのお宅の「お母さん」から、あの瞬間のお話をお聴ききすることになりました。4世代家族で、最初の一撃のあと孫たちと道路で恐怖の時を過ごし、息子が最年長のおばあさんを抱いて外に出た途端、危機一髪で、次の余震で家が倒壊、命が無事であったこと、まだ家屋の下敷きのものは何も出していないこと、もう雪がくるので、春まで出せないだろうとのこと等。やっと一体だけ取り出したという、思い出の立派な雛人形は毛髪が取れてしまってはいるものの旧家の伝統を語っているようでした。

小地谷」では、36年そこで伝道をしている女性牧師・日野尾先生をお訪ねし、教会や街の被害状況、救援活動の様子を聴き、お祈りをして別れました。ボランティアセンターでは、被災学童保育に取り組んでいるYMCAのスタッフに状況をお聴きしました。

十日町教会」では新井純牧師夫妻が救援センターを立ち上げ、北海道と京都からの二人の牧師が常駐、ボランティアの受け入れ、派遣、救援物資の配付等、献身的に働いていました。また再開された保育園を訪問。牧師館は居住不能にまで破壊されていました。新井牧師のご尊父は私の神学校の同級生で、今は牧師を隠退、子息さんの近くに居住していますが、救援活動の輪の中で手伝っておられました。

 そこを辞して「小出教会」を訪ね、丁度開かれていた、関東教区の地震の会議に陪席し、お見舞いを述べました。そこの教会堂は立て替えを必要とするとの認定でした。これから雪がくること、山の崩落道路の破壊、田圃などの生産手段の破壊は、阪神とは異なった深刻な被害だと感じました。暗くなった被災地を後にしました。


 丁度その次の日23日は、阪神の大地震で倒れた「神戸栄光教会」の新会堂の献堂式でした。私も再建のプロセスに少し関わらせて戴いたので感無量の思いでした。地震から10年です。地震は人間の生活と心にほんとうに大きな影響を何年も何年も与えました。それが何なのか、年と共に深い意味が私の内でも醸成されています。中越の方々にも、焦らずに、と祈ります。川和教会では、目下救援募金をしています。ご協力下さい。

(前、神戸教会牧師・川和教会代務者)岩井健作

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