走る姿

走る姿

2004.2.8 川和教会礼拝説教要旨

フィリピの信徒への手紙 3:17-21

1、フィリピの信徒への手紙を読んでいると、筆者パウロの生きる姿は、走っている姿としてイメ−ジされます。「自分で走ったことが無駄でなく」(2:16)、「目標を目指してひたすら走ることです」(3:16)と自らも語っています。このことは、パウロが批判している相手(論敵は律法主義的な人たちや知識主義的な人たち)の信仰理解が「立ち止まっている姿」「あぐらをかいて座っている姿」に喩えてもよいぐらい自己満足・自己栄化・自己充足的だったのです。パウロはその有様を「肉を頼みとする」(3:4)、「十字架に敵対して歩く」(3:18)、「腹を神とし」(3:19)と言っています。

「肉(家柄、能力、熱心)を頼みとする」ことはパウロ自身がたどってきた道でしたから、自分への自省として語っているのかも知れません。それは涙なしには語れない(3:18)事でした。

2、これを語るパウロの位置は、「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」(3:12)という関係的位置です。

 救いは自己の破れの姿をありのままに包む、神の出来事(神の義と愛)の関係の受容です。

 この関係は知見として、あるいは体験として了解可能な事柄ではなく、「そこ(天)から主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」(3:20)と表現(古代的表現ではありますが)されるように、将来に引き付けられて今を自覚する生き方です。走るには重心を前へ掛けなければなりませんが、時間的重心を前へ掛けた姿です。

3、既成事実ができると「もうあかん」とそれに順応していまう(例えば、自衛隊のイラク派兵を政府が強行したら、派兵支持の世論が増えたなど)のは、しっかりと「自分の救い」に立った生き方ではありません。

4、パウロは17節の冒頭で「わたしに倣う者となりなさい」と言います。これは、振る舞い、行為、倫理の模倣ではありません。倫理は時代で変わります(例えば、禁酒禁煙、個の尊厳や人権の確立などは、明治の基督教倫理では大変大事でした。今は健康管理や社会や教育の問題です)。模倣は主体的真理を学ぶ優れた方法です。それはパウロが苦労して身に付けた信仰の生き方、恵みの出来事を指しています。知識としてではなく「倣え」という言い方でしか伝えられないもどかしさに注目したいと思います。

 教会(キリスト教界)で、信仰のよき先達に出会ったら幸いですね。「信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(ヘブライ人への手紙 6:12)。初代教会の指導者の発言です。