2003年6月29日 川和教会礼拝
説教原稿、要旨(配布レジュメ)
(神戸教会牧師退任1年、川和教会牧師代務1年、
鎌倉在住、健作さん69歳)
(説教要旨)ヨブ記6:14-30
1.財産・家族を奪われ、加えて病苦にうめくヨブは、自分の生を呪い、死を願う。友人エリファズは、ヨブのくずおれを座視出来ず、ヨブを諌め励ますために語りかける。
2.しかし、その内容の正しさにも関わらず、言葉はヨブの重荷となる。
3.ヨブは友人に「私の苦悩」を訴える。それは海の砂より重いのだと。
4.友人エリファズは、彼なりに「あの敬虔深いヨブ」に、あそこまで自分を呪わせてはいけないと、善意から「この試練は、全能者のヨブへの懲らしめなのだ」との解釈を語り、彼を戒める。
5.ヨブは、口語訳では「言葉が軽率(性急)であったのだ(言葉を失う)」と、友人に苦しみを伝え切れない、自分の側の言葉の不足も自覚する。
6.エリファズは自分自身の体験、見識から語るのだが、両方共に普意でありつつ、言葉がすれ違う。
7.ヨブは、友人への失望を示す。13章では、「あなたたちは、みな偽りの薬を塗る役に立たない医者だ、どうか黙っててくれ。黙ることがあなたたちの智恵を示す」とまで言う。言葉は何故すれ違うのか。
8.ヨブには「自己の義の確信」がある(10節)。彼は苦痛のなかでも「聖なる方」を否んだことはない、と主張する。エリファズは、苦しむヨブに「忍耐をせよ」(11節)と語る。苦しむ者に倫理的言葉は力にならない。
9.言葉が力を持つための基盤である信頼関係・愛が欠けている。エリファズには、ヨブの苦しみに黙って寄り添うという愛が欠けている。
10.14節「友情を示せ、さもないと(あなたの、あるいは私の、とも受け取れる)全能者への畏敬は失われる」と、友情と全能者への畏敬の相関関係が語られる。(マタイ18:21~35を思い起こす)
11.14節「友は忠実(ヘセッド)であるべきだ」とは大切な言葉。
12.28節では「だが今は、どうか私に顔を向けてくれ」と求めます。言葉よりも、顔が大事だと。
13.止揚学園園長・福井達雨氏の「師」と「者」との区別。言葉と顔の違い。
14.幼い子は母親の顔を見て行動し、成長していく。
「顔は心の指標なり」(the face is index of the mind)。
15.詩編27編8節「心よ、主はお前に言われる『わたしの顔を尋ね求めよ』と。主よ、わたしは御顔を尋ね求めます」とあります。顔をもって神を讃美することが出来るよう、祈り求めていきたい。
主よ、あなたの慈しみに倣って、近くの、そしてまた遠くで苦しむ人々に、慈しむ顔を向けることが出来るように、私たちを赦し、励まし、用いて下さい。主の御名によって祈ります。アーメン。
(2003年6月29日 川和教会礼拝説教要旨)